猥(みだ)らに色めくのではなく、そっと胸を圧してくるような、いくらか堅い面持ちの事象として石井隆の作品中には“小水”が出没する。其処には独特のおごそかな時間の滞留が起きて見える。体内から解き放つ者、その様子を横から凝視する者、どちらの眼球にも燃え狂う熱量は潜まない。
たとえば、初期の劇画に【果てるまで】(1979)という短篇がある。主人公は例によって厳しい職場から脱落してしまい、とてもじゃないが家族のそばに居られなくなった男だ。自分と似た空気を漂わすおんなと偶然に出逢ってしまい、波長の引かれ合うままに肩を寄せ、やがて出口なき道中へと手に手をとって墜ちていく。人生の途上で思いがけず宙ぶらりんとなった互いを労わり、何かしらの手応えを求めて膿(う)んだ時間を重ねていく。要約すればそんな話だ。
飽くことなく相手の裸身を縛っていく、抵抗することなくひたすら縛られていく。ぼんやり灯っては消えてゆく一瞬の光明を探りながら、終わりの見えない性愛の試行錯誤を連ねていく。夢幻の調べに囚われて昼夜の区別なく踊り明かすそんな男女の息づきを、石井は丁寧に活写していくのだが、その中に数コマ分だけ唐突に仮住まいの便所の扉わきに視座を置き直して、放尿するおんなの背中を身じろぎせずに視守る男の静態を挿入している。
いつしか無精ひげを蓄えて野性味帯びた風貌の男なのだったが、おもむろに腰を屈めるとおんなの下腹部へと腕を伸ばしていくのである。おんなの血肉で温(ぬく)くなった液体を手のひらで受けていく。指先から前腕を伝って肘(ひじ)へ、さらに二の腕から肩へとつつつっと小水が伝い零(こぼ)れていき、遂に男は自身の唇を寄せてこれを舐め取ってしまう。
愛する対象の小水を躊躇うことなく口にする。この時の両者の表情や声を石井は堅い構図と描線を崩すことなく、淡淡と切り取ってみせる。狂騒はまるで視止められない。存分に肉を味わい尽くした末の茫洋とした時間であり、アパートの狭い部屋は倦怠の霧で満たされているのだと捉えることは可能であるけれど、おんなの微かな反射からすれば、おのれの小水(および排泄中の器官)に触れられる体験は初めてなのが窺い知れる。
初めての直球が投じられていながら、突起する感情が産まれ落ちない。どうやら石井は小水を性愛の小道具に最初から用いる気持ちがないのだ。歓喜の質量は手のひらに転がるビー玉のごとしであって、爆発的な燃焼に至っていないのが興味深い。此処のところはしっかり認識する必要を感じている。
人によって多寡あって当然だが、聖人君子ではない私たちは成長過程でエロティシズムの幻影を愉しもうとする。小説かもしれないし、映画かもしれない。舞台かもしれないし、漫画かもしれない。ちょっとだけ血をたぎらせ、そうして元気をもらいたい時間が誰の身にも訪れる。束の間でも良い、腹の奥がじゅんわりと燃焼すればそれでなんとか塞いだ気分が救われると信じ、だからこそ繰り返し繰り返し私たちは物語に見入っていく。人間は遣る瀬ない日常を耐え忍ぶための発明を絶やさぬ、極めて健気な、何ともささやかな我慢づよい生き物だし、そんな私たちにとってフィクションは欠かせない暖炉となっている。
総てとは言わないが、フィクションにおいてエロティシズムと排泄行為が交差したとき、居合わせた登場人物は激情に包まれ、言動は猛々しさを弥(いや)増すように思うのだがどうだろう。また、排泄物は彼らの興奮に呼応するようにして分子運動を加速させ、劇中で激しく飛び散るように成りはしないか。例えばここで西洋の著名な作家の小説からどのような装飾が小水に対して為されているか、書き写せばこんな具合となる。抑制しがたい若い躍動が書面に焼き付けていて、いちいちの形容に技巧が尽くされてそつがない。
「血ではないが透明な、私の目には眩しくさえ思える尿の噴水で自分を塗らす以外に、気をやることができないのだった。その噴水は最初はしゃっくりのように断続的に威勢よく、やがてなめらかに放出されるあたり、人並はずれた歓喜の陶酔と軌を一にするといってよいだろう」(*1)
同じ小説中に小水の描写をさらに探せば、「熱い魅惑的な液体」、「えぐい幸せな匂い」といった生々しい表現も散見される。本来エロティシズムを軸芯にした物語において小水はここまで激しい動きを求められるものだし、小水とたまたま遭遇した、または、面前に召喚した登場人物は弾け飛ぶような反応を読者に示し、更に相手の肌の奥を必死のまなざしでまさぐっていくものではないか。本能を高揚させ、陽根なり陰核になだれ込む血潮を充溢させてやまない強力な回春剤として小水は機能していく。
フランス文学者の山田稔(やまだみのる)は上の例に引いた小説とこれに類似する西洋文学を取り上げ、次のように解題してみせる。小説中で展開されるのは「エロチスムの一変種としてのスカトロジー」であり、「すなわち、奔放な性のたわむれにふけっている一組の若い男女の性欲のみたし方は、病理学的にいえば糞淫症に近いもの」である。(*3) そうして、「気まぐれや冗談であるどころか、その思想の本質部分を形成していることがわかる。彼らは、糞尿という否定的要素の肯定によって、価値の転覆をはかっている」と省察を加えた上で、「悲壮な、深刻な抗議者ではない。」「陽気さが、絶叫ではなく哄笑が生まれてくるのだ」(*4) と締めくくる。
わたしは石井隆以外の艶笑譚にそれ程詳しくはないけれど、あれこれ掘り返して嗜虐小説の記憶を手繰ると、確かにけたたましい哄笑が纏わりつき、土俗的で威勢のよい祝祭の只中に置かれたような表現が圧倒して多いように思う。連れ込み宿にしけ込んだ男女ふたりだけの劇であっても、どうかすると複雑な体位を次々に披露し、哄笑とともに大量の汗を噴き上げ、また、性戯の果てには潮吹く勢いでしゃあしゃあと小水がほとばしったりする。ひたすら高い頂きを目指して這い登る具合であって、消費熱量と喧騒が半端でない印象がある。
【果てるまで】に代表される石井隆の小水描写は熱量をともなわず、まったく発火に至っていない。不意をつかれたおんなは「バカ」と男を謗(そし)り、これに対して尿を舌で舐め取りながら男は「大バカさ」と肯定してみせてまるで喧嘩にならないのだし、屋外に出てからの両者の試みはどこまでも冴え冴えとして、公園の塑像のように冷えた面持ちだ。そのような放冷するばかりの、やや空虚な時々刻々こそを石井は描こうとしている。
このように一般的な性愛劇とは趣きがどうも違うのだけど、それを不完全燃焼とか発酵に失敗していると見るのではなく、そもそもが石井の目指しているものが最初から「性愛劇ではない」という見方もここで活きてくるように感じられる。あれ程も裸身に満ちあふれ、性的行為が連なっており、一般の目線からはエロティシズムを軸芯とする物語に見せてはいるけれど、石井はエロティシズムを遥かに超えた劇をずっと模索しているのではなかろうか。その証左となるのが先述の【初めての夜】(1976)と同じ地平の、小水と性行為との乖離が明確となる【果てるまで】の硬直した面相だ。
(*1):「眼球譚(初稿) Histoire de l'œil」 ジョルジュ・バタイユ Georges Bataille 生田耕作 翻訳 河出書房新社 2003 51-52頁
(*2):同 37頁
(*3):「陽気な破壊者たち」 山田稔 「スカトロジア―糞尿譚」 講談社 1977 所収 114頁
(*4):同 117頁