十分な取材をせずに執筆し、けれど、あとがきには「モデルは、かの石井隆」と大書きする。あげく現実から乖離した風景を物語中に羅列して、石井の読者をひどく惑わせた栗本薫の小説「ナイトアンドデイ」。これについては先日、私見にはなるけれど縷々(るる)綴っている。幾つかの箇所に反証を試みたわけだが、そのときにあえて取り上げなかった一節がある。こんなくだりだ。
「そして何気なく手の中のものをみて目をむいた。(中略)白い紙の上に、画面いっぱいに、女が大股をひろげていた。白昼──という時間でもなかったが、とにかく人目のあるところで、大っぴらにひろげられるしろものではなかった。画面のまん中にひろげられた股間には、それこそひだの一つ一つ、毛の一本一本までが、恐しく偏執狂じみた細密さでもって、描きこまれていたのである。何だか、頭をぼかんといきなりうしろから殴られたような衝撃があった。」(*1)
「ナイトアンドデイ」は最初から最後までひとりの若者の視座で描かれる。とある夏の日に、よく行く喫茶店「ルージュ」で漫画家と出会う。道に落ちた紙片を拾い上げて前をゆく漫画家に手渡したことが言葉を交わすきっかけなのだが、その際に手にしたスケッチのおもてに在ったのは大きく股を開いたおんな、それも克明に陰部が描かれた姿であった。若者はびっくり仰天し、目の前に立つ男が自分とは異種の存在だと認識する。そのような幕開きだった。
最初に読んだとき、目の奥で閃光みたいなものが揺らめいた。「頭をぼかんといきなりうしろから殴られたような衝撃」と文中あるが、それはむしろこっちが言いたい事だ。どうしたらこんな連想が出来るのか不思議でならなかった。栗本は言葉を注ぎこんで視覚に訴え、読者を扇情すべく骨を折って見える。それは違う、歩み寄る方角が真逆だと思う。
何かしら異議を唱えないといけないと焦りながらも、横目でちらちら窺うままで正対することを避けてきたのは、反論する目的であれ何であれ、自ら栗本の術策に乗って性的な話題へと流されては危ういかな、と警戒心が湧いたからだ。寝た子を起こすのじゃないか、かえって石井作品への誤解の種を世間に蒔いてしまう可能性を怖れた。
縮約し過ぎかもしれないけれど、「石井隆の世界」というものは相反する意識が常に折り重なっている。売春窟や異常性欲といったいかがわしき舞台や快楽の黒い波に獲り込まれてしまい、はげしく変容を遂げる肉体なり表情が往々にして描かれるが、そういった表層部分の詳述と並んで、徹底して醒めきった硬質のものが奥の席にでんと居座っている。
木の葉や枝で埋め尽くされた山道に似ている。足裏に豊かな厚みを感じ、ひとたびこれを意識すれば、途端に厖大にしてかぐわしき香りが地表から舞い立って肺腑を満たしていく。やわらかく敷きつめられた枝葉のひとつひとつが石井の思念だ。一見それらは物語を構築する上で打ち捨てたもの、“ゆずり葉”めいて目に映るが、決して消滅などしていない。裸体という森の総体を見えないかたちで思慮や倫理観の堆積が支えている。その色とりどりの多層性こそが石井の作る劇の血髄じゃないか。
横たわる肉体を前にして茫洋と手応えのないまま、幽鬼のごとく佇立するおんなや男がいる。本音はまるで望んでいないのに、状況を変えたい一心でやむなく肉感的にならざるを得ない人間がいる。『夜がまた来る』(1994)の椎名結平のように、『甘い鞭』(2013)の壇蜜のように。官能から逸脱して冷却しまくる心底(しんてい)が、劇の足元にかならず息づいている。ひそやかな逡巡がゆらめき立ち、その末の自己破壊やある種の内的闘争の一瞬が粘り強く描かれる。
身体と魂、外面と内面の両輪が常にぐるぐると回り続ける。両極にあるふたつの側面が螺旋となって付かず離れずの昇降を繰り返す。そんな絶え間ない二重性が常にあるのであって、そこのところに慎重に、平衡を保ちつつゆるゆると触れることが石井作品を論述する際には大切と感じる。
ところが誤解と妄想に基づいた栗本の先の文章は、おんなの表層に関する記述を無闇に連ねて、どんどん皮膚に目線が貼りつくばかりでバランスが完全に崩れている。こころを置いてけぼりにして石井隆の劇は語れないのに。
いつしか若者は自宅兼作業場であるアパートの部屋に出入りしてアシスタントの真似事をするようになるのだけど、漫画家の原稿は一本調子であり、陰部にえらく執着(しゅうじゃく)するのだった。栗本はおんなの特定部位につき、しきりに形容をほどこして若者と私たち読み手を煽っていく。どうしてここまで煽るのか首をかしげてしまう。創作だし娯楽作なんだから、話術の一環と思わなくはないけれど、冷静に振り返ると妙にざらつく照り返しと手触りがある。さらに書き写してみよう。
「「で、でもいいのかしら、こんなところまで描いちゃって」ぼくは照れかくしを口走った。「ダメですよ」「え?」「全部、あとで、編集部がホワイトか墨でそこを消してます。ほら」(中略)──佐崎さんの絵があった。たしかに、大股をひろげた女体から、佐崎さんが異様な執念をこめて描き込んであったらしい部分はきれいに白くつぶされて姿をけし、そのせいで、苦悶の表情でそりかえった女は何となく間がぬけてみえた。」(*2)
「佐崎さんに手わたされる、大股びらきの女の、髪や背景を黒くぬりつぶしながらそのまん中に口をあけた精密画をじっとにらんでいると、何となく、あまりにもすべてが非現実だ、という思いにとらわれ──また、そこにぱっくりと口をあけているものが、何ともおぞましい、ぬめぬめしたなまこか、なめくじのたぐいの化け物にみえてきて、二度とそんなものに欲望をもつことなどない、という気になることもあった。」(*3)
後述するけれど明らかに佐崎のタッチは石井隆のそれではない。では、ならば一体この極端な性器への愛着は何であるのか。また、これ等の描写が石井とはかけ離れているならば、石井隆という絵師はどのような立ち位置にいると捉えるべきなのか。水底に錨(いかり)を下ろして、しばし考えてみたい。
(*1):「別冊文藝春秋 161特別号」 文藝春秋 1982年10月1日発行 251頁
(*2): 同 255-256頁
(*3): 同 263頁
出立予定の時刻まで間が空いたので、ワイシャツ姿でごろ寝して浮世絵研究家の林美一(はやしよしかず)の書いた物を読んだ。薄曇りながら夏の陽射しは健在で、シングルベッドは読書するには十分に白く明るかった。
歌麿が艶本(えんぽん)で最初に登用されたのは、『花合瀬戀皆香美(はなあわせこいのみなかみ)』という題名の墨摺の本と書いてある。1780年のことだから、映画『歌麿 夢と知りせば』が描いた1788年よりかなり以前になる。娯楽作にけちをつけても仕方ないが、事実とはかなり段差があることがその点からも窺い知れる。
『花合瀬戀皆香美』がどんな図案であったかは確認していないが、後の1786年に出された『艶本幾久の露(えほんきくのつゆ)』のなかの一枚が同じ本で紹介されていた。トリミングされて頭のてっぺんや足先を切り取られ、画面一杯で重なる男女の姿は清楚で品が良く、白黒の線がどこか後世の劇画に似通っても感じられて可笑しかった。素足をさらけ出したおんなに向かってむくむくと隆起した陽物が迫る様子は生命力が溢れており、当時の絵師の内部にみなぎる自信と相通ている。絵が悦んでいる、描くことの愉しさが伝わってくる。やましさの片鱗はどこにもなく、ただただ生きることの嬉しさで輝いている。
どうやらこの絵師は性愛描写に抵抗がないばかりか、むしろ勇んでこれに臨んでいたのであって、それも前傾の姿勢のまま時間をかけて自家薬籠中の物にしたことが分かる。人間の陰部を丹念に線描することは当時まったくタブー視されてはいなかっただけでなく、一流の絵師の嗜みのひとつであった。交合の様子をちゃんと描けないではプロとは呼んではもらえなかったのだ。
くだくだしく歌麿や春画について書き出したのを見て、こいつは鞍替えしたのか、いよいよ妄想は打ち止めかね、はいはいお疲れさまでした、と早合点される人もいるかもしれないが、白状すれば私のなかでは脱線も手のひら返しも起きてはおらず、相も変わらずに石井隆という作り手について考える時間が続いている。朦朧と思考する日々の果てにふと昔観た映画が思い浮かんだというだけであるし、そこに付随するようにして絵描きにとって人体描写とは何かを延々と考えている流れである。
石井と歌麿とは確かに関係がない。余計なことを書き散らしてと𠮟られるかもしれないが、絵画美術の潮流や時代変遷と石井の技法なり戦術は連結して関わっているのであり、頬杖ついて頁をめくったりモニターに向かう孤絶した趣味嗜好の内側だけでは、作品の輪郭は摑めても作家の体内に宿る陰影にまでは触れられない気がする。
ちょっとだけ真摯に向き合うべきなのだ。自身の回路を開放して追憶や慚悔(ざんかい)を差し出し、石井から贈られる景色と結びつけていく。息を潜めて頁やスクリーンを見守るうちに世界を観る角度が微調整なっていく。私は人と比べて何ごとにつけ経験値が低いから、古今東西の書物や絵画を引き寄せながら頭を整理していかないと言葉をつむぐ自信がない。束になってかからないと石井隆を語れない。
さらに言い添えれば、まだ栗本薫(くりもとかおる)の小説「ナイトアンドデイ」(1982)について反芻(はんすう)し切っていないという気持ちがある。いや、そうじゃないな、「ナイトアンドデイ」の奇怪な物語展開を通じて石井隆をより深く掘り下げようと試みている気持ちだ。あんな無責任で乱暴な小説にもう心は引かれないが、なぜあんな風に彼女が脱線したかを考えている。
栗本馬鹿じゃん、リサーチ不足じゃんと断罪するのは容易いが、あれは栗本のみの陥穴(おとしあな)ではなくって、私たちあの時代に生きた多くの日本人の過剰でいびつな倫理観が鏡像となって現われ出た瞬間じゃなかったか。小説中の誤った石井隆の黒いイメージとにらめっこしていると、日光写真のようにして本来の石井世界のまばゆいディテールが浮んでくる予感がある。
(*1):「別冊文藝春秋 161特別号」 文藝春秋 1982年10月1日発行
単行本 文藝春秋 1983年5月1日発行
文春文庫 文藝春秋 1986年8月25日発行
(:*2):引用画像の『艶本幾久の露』(1786)は「歌麿の謎 美人画と春画」 リチャード・レイン Richard Lane、林美一ほか共著 新潮社 2005 38頁より
歌麿はどのような気持ちを抱いて春画に挑んだのか。映画(*1)の中の性格そのままに鬱屈していったのか、それとも大して抵抗も覚えずに筆先を泳がせ、蚊帳のなかの組んず解れつを再現してみせたのか。記録も回顧録も何もない訳だから、ひとりひとりが推し量るより道はない。
存外ひょうひょうとして描き切ったのではなかったか、と今の自分は想像している。為政者とその取り巻きの暮らしぶりは知らないが、庶民の息づく景色は今よりもずっとのんべんだらりとした物腰だったに違いないから。男女ともにまともな肌着を巻いておらず、大きな所作にともなって下腹部が剥き出しとなることは日常茶飯だった。
扇風機どころか氷さえ満足に手に入れられない夏の盛りには、誰もが薄手のものを一枚か二枚纏っただけで町を行き来し、体型と肌が露わになることを厭わなかった。庭先や裏口にたらいを置いて行水し、もしも銭湯が近場にあったとしても其処は混浴が当たり前だった。赤ん坊への授乳に際して、硬く張った乳房をお天道様にさらしても何の遠慮もいらなかった。そんなゆるい時代なのである。
他人の視線から身体の部位を防御しようにも、「衣」と「住」のつましい環境がまるで許さなかったのだ。枕絵をしたためる事は、いや、直接的に言ってしまえば性器の描写は、だからそれほどハードルは高くなかったように考える。男女の相違を幼いころから認識し、互いの下腹部に陰陽の異なる様相を見つけたとしても、ああ、そんなものかと素直に納得したろうし、馴染みの遊女に幾らか包めば、しどけない姿態を眼前に置いて写生することも自在なことだった。町民の娘であれ娼妓であれ、そこに彼女たちの抵抗はそう大きくなかったのではあるまいか。
むしろ性器を描写することに不自由と困難さを感じ、また、いつかは征服すべき山の頂きと見定めて発奮したのは監督の実相寺昭雄の方だった。ひとりの浮世絵作家の懊悩と興奮は二百三十年前の江戸に在ったのではなく、昭和52年の作り手のこころに在ったのだ。
『歌麿 夢と知りせば』の公開当時、今から四十年ほど前の性愛描写はたしかに制約が多かった。突然にそうなった訳でなく、長い歳月をかけて自縄自縛の様相を呈した。歴史家ではないから詳しいところはよくは分からないけれど、明治期の洋画展覧会をめぐる裸体描写の規制などから見て、列強諸国を意識するようになってからいよいよこの国は分別を失ったように思う。
先をひた走る欧州に追いつこうと焦るあまり、かの地で寛恕(かんじょ)されていた裸体や性器をめぐる芸術表現を一切合切、問答無用で禁じてしまった。いびつな精神的鎖国を繰り広げ、何代にも渡って意味なく乱暴な抑圧が加えられた。
『歌麿 夢と知りせば』を観に来た客は江戸期のモラルが現在よりずっと穏やかでのんびりしていたと直感するのに、銀幕の上では堅物の痩せ男が無闇矢鱈に往来を行きつ戻りつしている。何をそんなに苦しむのか、天下の歌麿がどうしちゃったのだ。このもどかしさの根底には明らかに昭和の閉塞感が照射されている。江戸期の化粧がほどこされてはいるけれど、1977年の表現者の煩悶があざやかに刷りこまれている。(*2)
『歌麿 夢と知りせば』の作り手に限った話ではなく、誰もがもぞもぞしながら解決できずに生きていた。押し付けられた規範を先進的なものとして甘受し、そのあげくに言葉を選ばなければまったくの未熟児、もしくは妄想という名の膨張した瘤を腹に抱えてどこかバランスの失った健常者となった。矯正を強いられた身でありながら不思議に思わず、劣情の手綱を操ってこそ真の紳士淑女なのだ、ヘソ下を露わにするなんて未開人の粗野な振る舞いなのだ、官憲の取り締まりは至極当然のことと信じた。その癖うずく好奇心を鎮められず、欲望の芽を湿った暗がりに育てては宵闇にまぎれて扉を叩き、海外渡航に際してはポルノショップに足を運ばずにおれなかった。黒い髪のその一群を欧米人は鼻で笑い、セックスアニマルと侮蔑した。まったくひどい世の中、恥多き時代だったと思う。
ここ十年程のインターネットの普及により私たちは苦もなく、さほどの怯えもなく、人間が性愛にふける様子をじっくり観察してみたり、ときに悠々と愛でることが可能となった。もちろんそれらの多くが「商品」であって、金銭と引き換えに録られたり観られている訳だから、性的搾取の坩堝(るつぼ)と化している。
裏社会の非情なルールがおんなたちを追いつめ、心身両面の凄惨な崩壊劇がこの瞬間にもどこかの密室で起きていないとは限らないのだが、そのような闇の粘り気と腐った臭い、獣じみた悲鳴とも咆哮とも言えないものがモニターの隅のさらに向こう側に在るのを感じ取る仕組みだとしても、この国境を軽々と越える自由伝達の術(すべ)は私たちにとって善き性格のものと捉えている。長い鎖国が終わりを告げ、ようやく一個のまともな人間として扱ってもらえる。自身の半生を振り返って、そんな安堵とささやかな静寂を噛み締めている。
(*1):『歌麿 夢と知りせば』 監督 実相寺昭雄 1977
(*2): その前年の1976年に大島渚の『愛のコリーダ L'Empire des sens』が公開されている。欧州の観客の目には『歌麿 夢と知りせば』の法に則った描写はいかにも軟らかく、余程の退行現象と映ったのではなかろうか。