2018年3月14日水曜日

“重力にあらがうこと”(2)

 「重力」や「引力」という言葉から、しきりに思い出される一片の映像がある。インドで起きた転落事故の模様で、建物の屋上から若い女性が墜ちる瞬間を捉えたものだ。いつまでその残影がウェブに留まるかは分からないけれど、2018年3月の時点では誰でも容易に事故の顛末を見ることが出来る。

 だったらそのアドレスを貼ったらいいのじゃないの、ごちゃごちゃ書かなくても一目瞭然でしょうに。確かにその通りなんだけど、あれこれ逡巡してしまいどうしても割り切れない。生命を奪われた当人と遺族を包みこむ非情な成り行きにつき、これを軽々しく扱う気持ちになれない。はた目には道楽にしか見えない戯文の連なりではあるが、存外真剣に事象を見つめ、言葉を選んでつむいでいるところがある。今回だって相当に厳粛な気持ちになっているし、より謙虚にならざるをえない。じくじくした痛覚がぬぐえない。

 「死」は誰にとっても日ごと夜ごとに忍び寄るエーテルの霧であって、わたしには間(あいだ)を隔てる距離はさほど残されていない気がする。いつ窒息させられるのか、いつ引火して黒こげになるかも知れない。まったく他人事ではないのだ。また、同じ年頃の家累(かるい)を持ち、その成長を見守るのが日課となっている。遥か遠き外国の出来事ながら自身の日常と一本に糾(あざな)えて考えるところが自ずとあって、到底冷静でいられない。胸板をきつくきつく縛ってくる。

 そのような訳で映像をそのまま貼り出す気持ちにはなれないから、下手な文章になるけれど事故の経緯を書き出してみる。ムンバイにあるニュースサイトDNAの報道(*1)とウェブ上で散見する書き込みを総合すれば、昨年の7月25日の朝、地上へと墜落し、その後、病院で死亡が確認されたこの娘は、名前を古代の女神から譲り受けてアディティ Aditiといい、まだ十六歳という若さであった。コンピュータ応用学を専攻する女子学生で、学校で催されたロッククライミングの演習に参加していての事故という。幸福な一生を家族に祈られ、自由や無限をも意味する名前の響きと共にこれまでずっと歩んできた訳だが、一瞬の油断から手を滑らせて地上へと真っ逆さまに落ちてしまった。

 屋上から地上方向にワイヤー線を斜めに走らせ、滑車を使って伝い降りていくジップラインZIP-LINEと呼ばれるアトラクション、その順番を待っていて事故に遭ったのだ。ロッククライミングを生活の軸に据えているアウトドア派の友人に尋ねてみたのだが、クライミングとジップラインは自然に対する哲学が根本のところで異なるから、両者をひとつにした演習というのは奇妙な感じがする、きっと学生を喜ばせるために半ば遊び用として設営されたものではなかったか、という意見だった。歓声にあふれた冒険の日が真っ暗な刻(とき)へと転じ、居合わせた全員の心胆を寒からしめ、これからの人生に暗い影を落とすことだろう。

 まったくやり切れない、ざわざわする景色が映し出されるのだけど、カメラアングルの急変もあって、悲劇をとらえたカットは数秒のみと極めて短い。スマート端末で様子を捉えていた者は、黒い影が落下していく様子に気付いて途中から撮影を続行できなくなってしまったのだ。人間の生理は他者を襲う死の影を間近にして耐え切れず、無意識に目をそらすように出来ている。映像の性格はまるで違うが、自死のための投身をとらえた映像の多くに共通する“うつむき”がここでも起動している。

 画面上の為すすべなく墜ちていく娘の姿に衝撃を受け、大概の人はただただ悲哀の念に圧し潰されるが、短いそれを繰り返し再生して眺めるうちに、人間の情報認識の力というのは凄いもので、遠方にたたずむ灰色のシルエットのただ中に明確な表情が読めるように思えてくる。屋上に集った若者たちと、彼らの勇気を絞り出す役目だったインストラクターの一挙手一投足も鮮やかに瞳に映じて、刻一刻と明滅する彼らの感情までもが手に取るように解かってくるのが不思議だ。決して高画質ではないのに。

 デジタル端末の普及と動画投稿サイトの定着は、これまで覗くことが出来なかった他人の家の内側から路地裏の詳細までをくまなく提供するに至ったが、同じ映像を繰り返し再生して視ることが容易となった点もまた、人の知覚にとって巨大な跳躍ではなかろうか。映像に含まれる膨大な情報を漏れなく読み切るだけの時間と機会を与えられたのであって、その意味でこれまでの映像媒体にはない密度のある波力を生んでいる。しんどい作業にはなるのだけれど、視聴に次ぐ視聴は決して無駄な行為ではない。

 列の先頭に立つ娘の目と鼻の先で、ジップラインを使ってゆるゆると降下を始めた学生がおり、その勇姿を眺めやってインストラクターと同級生たちが盛んに拍手を送っているのが分かる。歯を見せて破顔する様子さえ窺える。いよいよ自分の番が来たと娘は数歩前に進み出て、屋上の縁をぐるりと欄干状に囲む、専門用語ではパラペットと言うらしいコンクリートの段差に背を向けると、すとんとその上に腰をおろした。期待に胸膨らませ、弾む気持ちを抑えられないような切れのある動作が今となっては痛々しい。

 手を伸ばしてロープなのかワイヤーなのか、張られた紐状のものへと指先を真っ直ぐ進めていくのだったが、やがて虚しく空をつかんで、体勢を大きく崩した娘はそのままゆっくりと建屋の外側へと身体を傾けていく。慌ててロープをたぐろうとするのだが、願いは叶うことなく重力の網にぐるぐる巻きに捕えられていき、下へ下へと強力な力で引き込まれていく。

 横にいたインストラクターが異変に気付いて娘に手を差し出すが、無惨にも指先からすり抜けるような具合にして若い命は地上に吸い込まれていき、仰天した男はその場に凍結している。屋上の学生たちのなかには事態の急変が一瞬で伝播し、緊張と動揺が爆発的に広がる様子も見て取れる。

 デジタルの細かい粒子となって定着した娘の生前最後の影を、わたしは何度も何度も繰り返し見つめて過ごす時間を持ったのだけれど、いつしか娘の表情や筋肉のこわばりが頭のなかで整理されて、網膜にすっきりと投光されるようになった。いよいよ感情の綾が伝わってくるのだった。驚愕、必死、当惑、悲哀が次々に点灯するのが分かってしまい、そうなればなるだけ、ひたすら嘆息するばかりで声もなく夜を過ごした。天国という場処があるのだとしたら、あの娘を迎え入れてもらいたいと思う。淋しかったろうな、本当に気の毒と思う

 そうして、これはよく世間で言われるところだけれど、生きることとは結局のところ「重力への抗い」である、という視点がのっそりと立ち上がり、わたしをあらたな連想へと手招いていく。「重力」を前提に私たちは文明を築いて来たのだし、これなくしては食の生産も商流も成り立たないのだが、本質的にこの「重力」という奴は猛々しい獣であろう。容赦なく牙を剥き、隙あらば喉笛を咬み裂こうとする。いつも死と密着して私たちの隣りにいる。

(*1):http://www.dnaindia.com/jaipur/report-girl-falls-to-death-from-6th-storey-in-front-of-father-2512907

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