2017年9月9日土曜日

“地獄を描くことによって「救い」を描く”~【魔奴】と【魔樂】への途(みち)~(9)


 こんな具合に旧い映画や書物の余薫が付き纏う。それは【魔奴】(1978)に限った話ではなく、石井作品全般の特徴だ。見聞した総てが雨のように染み入り、やがてゆらゆらりと連鎖しては鮮烈なイメージへと結像する。石井の映画や劇画のひとつを語るときには、当然のごとく数多の残影を引用せねばならない。いや、そうするのが義務というのではなく、ただそうやって広く深く考えた方がずっとずっと面白い作家であり作品であるのは間違いない。

 この辺りで石井が時おり口にする幕末の絵師、月岡芳年(つきおかよしとし)という存在に絡めて【魔奴】や石井世界を再度捉え直してみたい。人里から離れてようやく行き当たる“ひとつ家”の照明の落とされた暗室で飽くことなく繰り広げられる殺傷の景色は、おそらくは芳年の“無惨絵”に触発されたものだ。

 立て続けに親の死、妻の死に直面した男は彼女らを愛する余りにひどく動顛(どうてん)して魂を変調させ、休憩や宿泊にモーテルを利用する客を襲っては殺めていくのだけれど、累々と築かれた死体の始末に対しては無頓着な対応に終始する。モーテル近くに在る底なし沼に無造作に放擲(ほうてき)するのだったが、それはヒッチコック『サイコ PSYCHO』(1960)の系譜たることを紙面に刻む目的というよりは、この劇の主体となるのが何よりも人間の身体を傷つけ、死者を作り出すその一瞬の有り様をこの上なく残忍で逃げない構図なりタッチで発信し、世間を震撼させることだったからだ。私の推測が正しければ、石井は自分なりの“無惨絵”を描くことでどれだけの力が絵に潜むものか試したかったのだ。

 手元に芳年を特集した古い美術誌があるのだが、そこに作家の野坂昭如(のさかあきゆき)なんかに交じり画家の横尾忠則(よこおただのり)が興味深い一文を寄せている。芳年の血みどろ絵画の読み解きとして正鵠を射ると同時に、石井のかつての劇画と現在に至る映画世界にて執拗に重ね塗りされる血の描写についても正しく言い当てているように思う。

 横尾は芳年の「英名二十八衆句」の一枚である「遠城喜八郎」(1866)ほか数枚を選び、芳年の無惨絵の根幹にあるのは「救い」であると説いている。血だらけの武士がかたわらの石地蔵に腕を伸ばしている、「遠城喜八郎」とはそんな絵だ。少し長くなるが書き写しておきたい。

「芳年の絵をどのように見るかは勝手だが、ぼくは芳年に「救い」の観念を見る。救われない世界を描きながら、その実、芳年は救いを求めていたのであろう。正確にいうと芳年が救いを求めていたのではなく、芳年に憑きまとう死者の霊が救いを求めていたといった方が当たっているかもしれない。「英名二十八衆句」という作品は残虐極まりない殺しの場面の連続だ。ここには死の恐怖が最高に凝結しており、彼方に「救い」を求める人間の最後の姿が描かれている。」

「芳年は決して死を美化していたとは思えない。ずるずる引き込まれていく死と狂気の中で、芳年が最も求めたのは「救い」ではなかったのだろうか。己の因果からの解脱を願っていたのである。」

「芳年が仏教的な人間であったかどうかは別だ。ただ己の因果に相当苦しんだことだけは確かだろう。直感的にぼくはそう思う。地獄を描くことによって「救い」を描くなんて、やはり相当の苦しみであろう。因果からの解脱を芳年はどんなに望んだことだろう。「救い」を描きながら、どうしたわけか芳年の作品には「救い」の安堵感など微塵も感じられない。「救い」の観念は描かれているが、残念ながら「救い」そのものは描かれていない。身体中を小さな針が無数に駆け巡っているような痛みを感じる絵ばかりである。」(*1)

 石井は【魔奴】の最後にヤコブの梯子(はしご)にも似たひと筋の光を贈り、男と妻の亡骸を白く照射している訳だから、横尾の透視する芳年の焦燥や妄執とはわずかに段差がある。しかし、地獄を描くことによって「救い」を描くことや、「救い」を描きながら安堵感など微塵も感じられないという芳年の無惨絵の根本的な仕組みと石井の緊迫する劇の間には、地続きの目線なり同一の軌道が確認出来る。

(*1):「みづゑ」1977年8月号 美術出版社 39-41頁 「芳年・血みどろ絵に見る『救い』」横尾忠則 





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