【魔樂】(1986)で人体めがけて振り下ろされ、肌を割り裂いていく斧。単なる小道具を越えた作者の執着が感じ取れるのだけど、これを“趣味”のふた文字で了解して良いのだろうか。
確かに石井隆は斧を好んで使う。【黒の天使】(1981)のエピソードで狂った元傭兵がびゅんびゅんと振り回すし、脚本を提供した『ちぎれた愛の殺人』(監督 池田敏春1993)での名美(余貴美子)も斧をぶらさげて姿を現わし、最後は夫の村木(佐野史郎)も大上段にこれを構えて人生の幕引きをしたのじゃなかったか。そういえば、【デッド・ニュー・レイコ】(1990)にも大斧を携える屈強な女アンドロイドが登場する。
なるほど、重量感のある斧は視覚的によく映える。日本刀や小銃の扱いは武芸者なり殺し屋の技量や年季に左右されてしまい、勝敗の予想を狂わせてしまうけれど、斧というやつは誰が振り回しても当たればただでは済まないと思われ、ぶんぶんという風を切る音だけで相手は目を丸くしてたじたじとなる。観客の恐怖を煽り、娯楽色を強める。その辺をわきまえた差配と考えることも出来よう。
でも、【魔樂】において殺生の対象となるのは、睡眠薬で朦朧状態に陥ったか、当身(あてみ)で気絶させられ、その挙句に手足を縄で縛られて完全に自由を奪われたおんなたちだ。そんな無抵抗の者に向けて鋭利な万能斧を真一文字に振り下ろす行為というのは、武芸とか決闘とは無縁の局面だろう。ここでの斧は武器の範疇には含まれず、端的に言って処刑の道具、もしくは一撃必殺で打ち倒す屠畜用の器具になっている。争いを前提としない一方方向の仕組みとして万能斧は採用され、【魔樂】という劇中で荒い息を吐いている。
「おんなに打ち込まれる斧」という図柄だけを取り出して視線を注ぐとき、即座にフョードル・ドストエフスキーの「罪と罰」(1866)を想起する人もいるだろう。おいおい、勘弁してくれよ、まさか本気で言っているのかよ、【魔樂】は単なる人殺しの話であって中身なんか皆無の猥本に過ぎないだろう、と、失笑交じりのざわめきが耳に届くようだけど、一時は「劇画界のドストエフスキー」の異名をとった石井だ。簡単に連結をほどいて良いのかどうか、時間を割いても悪くないように思う。
ドストエフスキーの「罪と罰」は承知の通り妄想癖の強いロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフという男が質屋を営む老女を殺害し、その死体を目撃して硬直した老女の義妹を続けざまに殺して金品を奪うことに端を発する魂の遍歴を描く。ここまで縮約すると𠮟られそうだが、いまは何より殺害場面の熾烈さこそが大事だ。
老女アリョーナ・イワーノヴの殺害方法は背後から忍び寄り、斧の背部分で後頭部を連打し、頭蓋骨を陥没させて死に至らしめるものだったけれど、主人公ラスコーリニコフを当惑させ、その後ずっと魂を揺さぶり続けるのはこの老女の撲殺ではない。隣室を物色するうち、入り口の方で音がする。惨劇について何も知らずに帰宅した義妹リザヴェータ・イワーノヴナが、血の海を前に立ちすくんでいるのだった。手の平をこちらにかざすだけで顔面を守ろうとさえしないおんなに、真正面から歩み寄り、その頭頂部に斧の刃先を思い切り打ちこんでこめかみの辺りまで深々と叩き割った二度目の行ないに対し、主人公は心底戦き、いつまでも打ち震える羽目になる。このリザヴェータ殺害の場景の切迫した描写というのは相手が無抵抗であるがゆえに、また、斧の刃先が肉体を幹竹割りする惨たらしさゆえに、石井の【魔樂】と重い共振を為している。
石井の【魔樂】が「罪と罰」に触発され、下敷きにした訳では勿論ない。見える限りにおいては、血だらけの斧以外に共通するところは無い。しかし、石井が「劇画界のドストエフスキー」といつしか呼ばれたその理由に思いを馳せるとき、両者間に共通するものとして、描写の熾烈さ、人物相関の緻密さ、グロテスク・リアリズム、内観の深さという点があったのは間違いない。当時の読書好きの文学青年たちが石井劇画と文豪の小説に通底するものを確かに視止めた、その結果こそがあの譬(たと)えなのだ。だとしたら、【魔樂】だって「罪と罰」並みの重層構造と最初から捉えるのが正しかろう。斧から放射される重奏する面持ち以上に、私たちが留意すべきは実は其処のところなのだ。
連載誌の都合によって中断の憂き目に遭い、単行本化にあたり「かたちばかり書き足してラストらしく繕って」(*1)なんとか物語の体裁を保ったと石井は書く。殺人鬼がさらなる獲物を手にしたという至極簡単な説明であり、それも、第一話の冒頭と酷似したものだった。つまり、物語はふり出しに戻された形にされており、要するに阿鼻叫喚の地獄図は永劫に続くという解釈を読者は強いられた訳である。どこか状況に倦んだ気配が石井にはあって、もうそれで構わないと登場人物たちの一切を棄て置いてしまった。倦んだというのは言い過ぎかもしれないけれど、【魔樂】は撮影半ばに制作を中断させられた映画にも似た状態にあるのは十分意識して良いところだ。
振り返れば石井の劇は激しい終幕を特徴とする。たとえ主人公が精神を病んで現実から乖離し、魂がきりもみ状態に陥っても、そこに至るまでにはきわめて苛烈で積極性をそなえた(映画的と言ってもいい)境界面の破壊行動がともなうのが普通だ。『花と蛇』(2004)や『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)が典型だろう。ループ直前には愛する者、愛してくれる者の犠牲が生じてしまう。現状そのままに揺動もまるで無くするすると閉塞していく、そんな平坦な顛末を石井は好まない。昔と同様の生活を送ろうとする者、送らざるを得ない者には壮絶な痛みをともなう欠損が雷となって襲い掛かる。
この定型に倣うのであれば、【魔樂】の殺人鬼が「日常」(誘拐と殺害を繰り返す行為ながら、彼にとっては十分に慣れ親しんだもの)を続けるには、“愛着ある何らかの者”の欠損が在らねばならない。【魔樂】という物語はそこまで至っていない。その意味でいまだに幕は閉じられていないし、単行本の内容をもって石井の構想はおおよそ形を成したと捉えるのは見当違いと言わねばならない。劇はまだ序番を終えたところである。
読者はいかに困難であってもさまざまに想像をめぐらし、石井の過去作や近作と照らし合わせ、また、石井が読んだ、もしくは読んだかもしれない古今東西の名作の残照を手懸かりとし、登場人物の「その後」をどうにか見定めなければならない。【魔樂】という物語は其処を経て、ようやく私たちのこころの入り江に漂着するように思う。
ふたたびロシアの小説に戻れば、ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワ (ソーニャ)という娘が筆先から産み落とされる。家族を飢餓から救うため、街頭に立つ決意をした若いおんなだ。地獄を描くことによって「救い」を描く芳年の絵さながらに血まみれの小説世界に着地している。識者が「救助者」(*2)と表現する存在であるけれど、【魔樂】においてこれと同じ役割を担わされたのが第5章の末尾から登場する「山部明香」と名付けられたおんなだったはずである。【魔樂】は先行する【魔奴】(1978)を発展させたものと呼べるから、【魔奴】にて“語り手、目撃者”に選ばれた「愛」という名の少女と同程度、またはそれ以上の厚みなり重さで物語に食い込んだはずだ。
これまでの石井の作風からして、既に大勢の女性を殺めてしまった男の罪(*3)を司法の手にゆだねるはずはなく、おそらくは血と雨と青白い光に染まった大団円が闇の奥に待ち受けたはずである。当然ながら森の奥の廃屋が背景幕となり、息を呑み呻くしかない終焉が描かれたことだろう。身じろぎ出来ぬまま「救い」について延延と深省する、そんな夜がきっと在ったと考える。
(*1):「魔樂」 石井隆 ぺヨトル工房 1990 あとがき
(*2):「ドストエフスキー人物事典」 中村健之介 朝日新聞社 1990 218頁
(*3):「魔樂」第4章「悪魔のしづく」にて、男の前に被害者の断末魔の影が同時に出現する。数えてみると14人もいる。