夏の興行で気を吐く怪獣映画(*1)を観に行った。膨大な書き込みが今もソーシャル・ネットワーク上で進行中で、作品そのもの以上に世間の反応にまず驚く。ひと握りの人間の夢に何万、何十万もの人間が揺り動かされ、果てることなくざわめいている。称賛と同時にひどい言葉でけなされても、すべてを悠然と受け流して黙って見返している映画というこの媒体自体が、そもそも人智の及ばぬ領域のもの、神懸りした得体の知れぬ物なのだろう。
さて、こちらの映画の冒頭では、愛する家族を奪われた孤高の老科学者が東京湾上の小船から忽然と身をくらましている。入水したのか何なのか最後まで判然としないが、彼の怨みなり使命を託されたらしい水棲怪物が突如として出現し、関東平野に上陸、列島を北へ北へと縦断し始める。探せば話の種がいくらでも見つかる作品なのだけど、物語の大筋は家族の喪失と遺族の復讐譚なのであって、それも人間にあらざる者が敵討ちの役割を負う点が往年の化け猫映画にどこか似ているように思われ、いつしかそこに気持ちの先が集中している。
公開時に生まれてなかったり、寝ていて悪夢にうなされぬよう親が慮った節があって、正直言えば映画館で化け猫を目撃していない。東宝や大映の怪獣ものには足繁く通ったが、四谷怪談や百物語に代表される幽霊や妖怪ものは巧妙に遠ざけられて後回しとなってしまった。化け猫は石井隆のインタビュウに顔を覗かす常連であるのだし、権藤晋が聞き手となった「記憶の映画」にも題名を連ねていたから気にはなっていたけれど、DVDを入手して実際に観たのはごく最近のことだ。それも入り江たか子が主演するたった三本でしかない。
わずか数本を生かじりした程度であるから、先の黒い怪物と化け猫とを対比して大口をたたく資格があるとは思えないが、両者が道理をわきまえぬ“動物”の一種であって、感情や感覚の明暗はあっても十分に善悪を解するには至らぬ点は似ているように思うし、それ故に誰かほかの“人間”に仮託された復讐劇と比べて、周囲に及ぼす破壊と騒動がより一層大きく膨れる点も合致する。
私が観たのは『怪談佐賀屋敷』、『怪猫有馬御殿』、『怪猫岡崎騒動』(*2)なのだけど、特に最初の二本は素地である猫の本性そのままに妖怪が大暴れする感じが愉快だった。三作目の『岡崎騒動』は猫よりも亡者の霊魂が前面に出てしまい、毛色の違う幽霊噺に収縮したのが残念だったが、演じる方も演じさせる方も手探り状態の最初二作の混沌ぶりは壮絶至極であって、これならば少年石井隆の心をがんじがらめにしたに違いないと合点がいく。
首吊りしたおんなの白い影であるとか、夜叉の様相でにじり寄るおんなとか、雷鳴と稲光であるとか、斬られた弾みで宙を飛ぶ生首であるとか、後の石井世界、たとえば『GONIN2』(1996)であるとか【デッド・ニュー・レイコ】(1990)に通じる驚愕場面の釣瓶打ちであった。深夜に流星群を追うと、時にまばゆい光を四方に散らせて、ばっと砕けるようにして消えていく火球がある。理性なき者が暴れ狂うときの剛力というのはあれに似て、劇場の暗闇を絶対的に支配し、観た者の脳髄に強烈な残光を焼き付ける。
こうして脳内で石井隆の劇と化け猫ものを比べる時間を過ごせば、『GONINサーガ』(2015)の森澤という若い警官(柄本祐)に代表される孤児たちの境遇だって、一匹だけ生き延びて妖怪化する飼い猫と妙に似ていて、だんだんその顔が猫そっくりに見えてしまい、どうも全てに渡って血脈が通うように思われて仕方がない。近年の石井作品の骨太なおんなの造形についても、通底するイメージをそうっと潜ませていないかと勘ぐってしまう。妄想以外の何ものでもないのだが、石井作品に宿る独特の力を考えていく上で、往時の化け猫映画を結線させることは無駄ではないと思われる。
石井は劇画作品に時おり常軌を逸したおんなを描いてきた。【愛の景色】(1984)だったり【ジオラマ】(1991)がそれなのだけど、脚本や原作を提供するかたちで世に出した『ちぎれた愛の殺人』(1993 監督池田敏春)や【20世紀伝説】(1995 たなか亜希夫画)にて狂える名美をいよいよ登場させている。ただ、この時点ではまだ悲壮観がつよく漂うばかりの見姿であった。おんなから理性や感情を奪い、退行をもたらしており、どちらかと言えばこの時の狂気は、名美というおんなの体内に侵入した病魔の位置付けに留まっていた。
魂の軌道を外れ、奇声を上げて刃物を振り回す姿は異様な醜さがあるものの、まだまだ人間存在のはかなさを身に纏った存在なのだった。ところが2004年の『花と蛇』以降の石井の劇では、針は振り幅を大きくしているのであって、『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)や『フィギュアなあなた』(2013)に至っての狂人描写は、堂々たる押し出しを具えて胸を張り、立ちはだかる物に抗して猛進する構えだ。庇護されるべき精神迷走の状態に陥っているのではなく、まっしぐらに変容の道を極めようとする覚悟がともなう。タフな面相を同居させた美しく強い狂人が出現し、銀幕を支配している。
創り手にどのような心理的な変遷があったものか、当時あれこれ想像を巡らせた私たちであったが、石井のこころの奥に究極の美として化け猫がずっと佇んでおり、これに拮抗する発明として、超常現象の手段を取らずに究極の悲しみを発端とする狂気が劇中に配された、という捉え方も十分可能と思う。善悪を行動基準に定めず、感情の明暗だけを烈しく追い求める。人間に仮託された復讐劇と比べて圧倒的な破壊力を秘めた超人=狂人のそれを描きながら、石井隆は映画の魔性の極大値を模索している。
(*1):『シン・ゴジラ』総監督 庵野秀明 2016
(*2):『怪談佐賀屋敷』 監督 荒井良平 1953
『怪猫有馬御殿』 監督 荒井良平 1953
『怪猫岡崎騒動』 監督 加戸敏 1954
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