2016年3月25日金曜日
GONINサーガ ディレクターズ・ロングバージョン
(注意 収録内容にかなり触れています)
『GONIN』(1995)の正統なる続編。前作の幕引きでキャストのほぼ全てが息絶えてしまったから、俳優陣は(例外を除いて)若い世代、東出昌大, 桐谷健太, 柄本佑といった旬の役者に一新されている。それでも石井隆が全力で挑んだだけあって、違和感なく両者が繋がっていくのが見事。夜気の湿り、糸引く雨、咆哮、祝祭が受け継がれ、そこに雷光のごとく挿入される回想場面も効果を上げている。これならば、往年の『GONIN』ファンも頷く仕上がりじゃなかろうか。
根津甚八が自由の利かない身体をおして床を這い進む、その役者魂がなにより凄いし、年齢をまるで感じさせぬ化け物じみた鶴見辰吾もまた愉快だ。目撃するに価する演技、出来事が記録されていると改めて思う。二人がいぶし銀のかすがいとなって、19年という歳月の裂け目を連結していく様子は感慨深いものがあった。
ボックスには劇場公開版より30分長い「ディレクターズ・ロングバージョン(ディスク1)」が封入されていて、何がどう描かれているかと固唾を呑んで観たのだけれど、一言で表わせば“余情”が格段に増しているのであって、水中をたゆたうような、はたまた深夜のカウンター席でマッチ棒を組み上げて聖堂を築くような、精緻かつ官能がかげろう映画空間が点灯している。
興行への配慮から秒単位でハサミを入れ続け、コマをひとつふたつと削ぎ落とした結果、劇場公開版(ディスク2)は精悍さと瞬発力が際立ち、雄雄しい息吹きが渦巻く感じだった。それはそれで味わい深いのだけれど、ロングバージョンのあちらこちらで復活した人物の表情の豊かさ、所作のこまやかさ、それに舞台をすっぽり包みこむ光と影のざわめく競演はどうだ。カット尻の寂寂としてなんとも言えない余韻を何度が目にすると、いつしか脇役さえも濡れた情感を湛えて迫って来るのが玄妙この上ない。その辺りの“蘇生力”が予想外にあって、途中からは襟を正して観てしまった。
特に井上晴美と土屋アンナといった女優陣の描写には、劇場公開版を観た際の心証を転覆させるほどの“加筆”が施されている。これを削ぎ落として劇場にかけざるを得なかった作り手の無念というのは、容易に想像がつくのだった。立ち位置も奥行きも、まるで違って見える。ラストの土屋の演技なんかは格段の差があって、映画館でも総毛立って涙がスクリーンを曇らせたのだったが、このロングバージョンを観ていれば、延々と涙して腫らした顔がどうにも照れ臭く、たぶん席を立てなかったはず。わずか数秒、数分のカットがここまで印象を変転させるのか、と、映画にひそむ魔物の存在に唸らされた。
また、【赤い微光線】(1984)等の酒場に沈積する呼気、【シングルベッド】(1984)、【主婦の一日】(1991)に連なるおんなの孤愁がみるみるうちに影を濃くするのであって、これはもう石井世界という大木の根茎や樹液を明瞭に指し示す訳だから、ファンにとってはたまらない贈り物と言える。
劇場公開版(ディスク2)に添えられたオーディオコメンタリー(東出、柄本、竹中直人、石井隆、佐々木原保志カメラマン)には演出プランと演技がぶつかり合い、神々しいと言っても大袈裟でない景色がどうやって舞い降りたかが存分に語られていて、聞き応えが十分であったのだけど、こちらの通常版とロングバージョンの編集を相互に再生して見比べることで、映画内の呼吸や焦点の段差がありありと体感出来る仕組みとなっている。そんな遊びも映画を愛する人にとっては興趣が尽きず、嬉しい宝探しとなるだろう。
ディスク3はメイキング映像であるのだが、クラブ「バーズ」をスタジオ内に再現した大掛かりなセットが見応えがあるし、神域に達した観がある石井組の水芸がこれでもかと続いて、半ば溺れる気分でもって堪能した。もはや熱病、狂気と表現しても差し支えない撮影現場での昂揚を切り取るべく、縦横無尽に視座を換えるカメラが巧みで、それだけで映画的興奮に包まれる。特に末尾を飾った東出の、主役の大任を果たし終えた直後の万感あふれる素の表情、瞳のうるみ、背中を見せて去っていく薫るような姿には、目撃者のこころを震わせる光の放射が宿っており、男ながらにちょっぴり惚れてしまった。
2016年3月10日木曜日
“哀悼傷身・樹上葬・台上葬”
石井隆の劇にはどことなく硬質な佇まい、眼窩周りにきゅっと力がこもる生真面目さが宿る。人によってはこれを“倫理的”と称してみせ、なんて的を射てきれいな指摘と舌を巻いた。語彙の足らない私はぐずぐずと吃るばかりで決着に至らず、言霊(ことだま)の山野を今日もまた歩き回っている。石井世界のコアとは何か、石井隆とは何を成す者か。焦りやもどかしさに囚われるせいか脳内回線は開きっ放しで、日常のありとあらゆる事象でもって結線を試みてしまう。
仕事や飲食、勉強に読書、公私問わずささやかな所作や媒体を通じて、幽かな火花が発せられる時があるから嬉しい。古い墓所を目にすれば自ずと劇中の地下空間へと想いが馳せていくし、これまで気付かなかったディテールに焦点が移っていく。大概は思い過ごしだけど、石井世界はそれさえ受け止めて揺るがず、むしろ奥行きを増して見える。遺跡の歴史や構造を専門書に手探れば、そこにも火焔があがり道を照らすのであって、たとえば、先日の読書中に突き当たった“哀悼傷身(あいとうしょうしん)”という字面を前にして不意に泡立つものがあった。
時おり石井の劇には自傷行為が描かれる。読み手側にとっては胸えぐられる場面で、粛然とした舞台空間に導かれる訳だが、置かれた足場はどれもが同じ高さではない。そこに至る成り行きには何か得体の知れない部分が潜んで感じられ、しっくり来る表現が見当たらずに悶々と過ごしてしまう回も雑じってくる。そうか、あれは哀悼傷身であったか、そのように捉え直せば今になって随分と落ち着くところが実際あるのだ。
辞書検索で調べると、次のように在る。「哀悼の意あるいは服喪を表現するために,自己の身体の一部を傷つける習俗をさす。その方法としては歯を抜く(ポリネシア,中国のケラオ族),指を切り落とす(ニューギニア,メラネシア,ポリネシア)などの例もあるが,世界的に広く分布しているのは,顔や身体に傷をつけることや,髪を切ることであって,ユーラシア,アメリカ,アフリカ,オセアニアに広がっていた。断髪は一般的に言って傷身の緩和された形式と言えよう。哀悼傷身はユーラシアとポリネシアでは王侯や夫の死に際し,臣下や妻が行い,殉死の代用的な性格が強いが,南アメリカでは階級分化のみられない未開農耕民や狩猟民が行っていて,浄めの機能をもつといわれる。」(*1)
私が新たに手にした大林太良(たりょう)著「葬制の起源」(*2)によれば、哀悼傷身は徐々に儀礼化、様式化、また肥大化し、意に沿わぬ者を強制的に傷つけたり膨大な洵死者を作る悪循環も出て、やがて権力者側が禁じたり自然と廃れていったらしい。この日本国ですら断髪(つまり出家)ではなく、壮絶な自傷のしきたりが世に蔓延した時期があった事が記録からも読み取れる。いずれにしても過去の習わしのひとつだ。
【デット・ニュー・レイコ】(1990)のような一部を除けば、石井の劇はおしなべて現代の街が舞台である訳だから、古色蒼然とした語句をここで引き合いに出して解読を図るのは奇異に映るだろうけれど、たとえば劇画【天使のはらわた】(1978)の第三部において、幼なじみを手にかけた主人公の川島哲郎が、友の形見の櫛(くし)でもっておのれの手首をグズズーッ、ズッと傷つけていくくだりであるとか、『花と蛇2 パリ/静子』(2005)の幕引きで、夫を喪った杉本彩が延々と自らの背中を鞭打つ場面であるとか、それ等自傷の現場に巣食う物悲しさ、重い旋律というものは、まさに“哀悼傷身”という表現のみが適当であって他の形容では隙間が埋まらない。
彼ら自傷する者たちが烈しい自責の念に苛まれているのは違いないのだけれど、捨て鉢になっての自罰、自死願望、ありがちな破滅型の造形といった黒い轍(わだち)に足を取られた訳ではなく、温かい血が脈打ち、一種超然たる境地に置かれている点を読み手は注視して良いだろう。変な例えだけれど、背を正しての自傷行為がそこでは繰り広げられている。彼らは生き残ったこと、生き延びることを否定してはおらないのであって、破壊と前進の両面性が絶えず付帯する点は見逃せない。
『夜がまた来る』(1994)での村木(根津甚八)の指詰め、『甘い鞭』(2013)での主人公のSM世界への拘泥には各々それらしき理由づけはあるのだが、これを哀悼傷身の一環と捉え直せばもはや奇抜でも頓狂でもない。古代の儀式は世に消失して久しいが、その根底にあった本能の蠢き、原初的な人間の雄叫びや悲憤と同類のものが劇中に挿し入れられて有る。石井の作劇らしい、表の理屈と裏に潜む真情の重奏。弾みのついた跳躍が認められる。
同じく大林の書中には、我が国ではあまり見られない葬送の奇習が紹介されているのだけど、地上から離れた場所に死者を横臥もしくは縛りつけ、遺骸の散逸を防ぎながら内臓や体液の腐敗、乾燥を完遂させて、肉体と魂が最終的に再生されることを祈念する“樹上葬”や“台上葬”についても語られている。これなども石井の劇に顕著に現われる“高層階の地獄”といくらか重なって感じられ、私には大きな刺激があった。
(*1): コトバンク 世界大百科事典 第2版
(*2):「葬制の起源」 大林太良 中公文庫 中央公論社 1997
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