この場の副題に触れながら、李商隠(りしょういん)について語ってくれた人がいる。中国の詩人らしいのだが、浅学で返す言葉に詰まった。元々が詩歌の素養に欠けている。江口章子(えぐちあやこ)の評伝、原田種夫の「さすらいの歌」 (1972) を以前読んで胸を打たれたから、ああいう語り口で李商隠という“人間”を描いたものであれば読み通せそうと思え、好機と捉えて関連本を一冊求めた。高橋和巳の「詩人の運命」(*1)を選んで毎夜頁を繰ったのだが、さすがに千年も経つと足跡も輪郭も明瞭でないらしく、主に作品解題にばかり頁が割かれている。漢文の授業を受け直している気分がした。
けれど、間欠泉のごとく噴き出す高橋の発想や絵解きが実に楽しく、それを励みにしてどうにかこうにか読み終えたのだった。時にまばゆく、濁った頭を雷撃して嬉しい。印象深い箇所を整理を兼ねて書き写そう。引用と呼ぶには行数があまりに多いけれど、これ以上四散させては書き手の訴えるところが伝わりそうにない。
「哀悼はその存在の無化に向けられるだけではなく、肉を超えて残されようとして残りえぬ志の共有があるとき、いっそう切実である。なぜなら共通の志向を介在してこそ、人間存在の有と無の対比は、とりかえしようもない断絶であることが認識されるからである。李商隠が、まだそれほどに人生の辛酸をなめたわけでもない若年のころから、すでにこの面で卓越していたことは、いずれは泥にまみれるべきものながら、彼にもなにほどかの抱負があったからであり、その哀悼がほとんど挫折者にむけてのみたむけられているのは、彼を未来へひきずってゆく何かの予感のためだったかもしれぬ。いや文筆の魔性は、しばしば他者にむけて書かれたことが次の瞬間に運命的にみずからのこととなる皮肉にもみられるが、それは共感というものが、単に過去の経験の相似によるばかりでなく、未来の予感からも発するものだからである。」(184頁)
「フランスのある寓話に、貧しい少年が、魔法使いから一つの青い玉を授かった話がある。その玉は、耐え難い不幸に襲われたときに覗くと、世界の何処かで、いま自分が経験するのと同じ不幸を耐えている見知らぬ人の姿が浮かんでくる。その少年は、その玉を唯一の富とし、その映像にのみ励まされて逆境に耐えてゆく。李商隠が夥しい故事を羅列するとき、それは概ね、彼の意識に浮んだ青い玉の像だと解してよい。それ故にまた、そこに表現される意味が享受者の精神の玉に何らかの像を結べばそれで充分であり、それ以上の穿鑿は必ずしも必要とはしない。それが文学なる人間のいとなみが持つ最大の効用であるだろうから。」(316頁)
個人的には「共感が過去の経験の相似によるばかりでなく、未来の予感からも発する」という箇所に最も胸を貫かれ、深く頷くところがあった。将来を予測することはどんな些細なことでも難しいが、それを投げ出さずに続けた先には他者への共感が生れる。劇場で展開される他者の境遇に私たちは涙するのだけど、思えばそれは未来予測が有ればこそであって、端的に言えば、別れや死、失敗、膠着、罪悪感、これに対する慰撫といった負の未来を透視する力に支えられている。劇中人物に向けられるものに限らず、紙面や現実世界を前にして湧き上がる他者への痛切な想いは、いわば自身の未来図を透かし見た結果なのだ。これに気付けば彼らに対する親近感はより増すのだし、短絡的な言動も自ずと抑え込まれる。言われてみればその通りであるけれど、私にとっては完全に盲点であり、体温をともなう読後感があった。
さて、これらの文章は、もちろん高橋が李商隠“だけ”を語ったものに過ぎないから、これを別の作家への懸け橋に用いることは土台からして間違っているし、断章取義以外の何ものでもない。けれど、ここにはまず高橋本人の捉える文学の役割が明示され、文筆家としての己の姿勢やまなざしがありありと浮ぶのだったし、絵画や文学に挑む創作者たちが次々と脳裏に立ち現れては、その内実が透けて見える。私たちが絵や小説、映画といったものに何故これほどまで共振するのかが説かれているし、不思議なくらい石井隆が挑む創造の荒野の諸相と合致する。それも実に面白かった。
「人間世界のもろもろの事象のうちの、なにに焦点をあわせるか、それ自体は嗜好と直観の領域に属するが、その直観の中にはすでに一つの態度が秘められている。なぜなら、人間社会の諸事象はただ単に自然的世界の存在物のように、そこに存在するだけではなく、長い伝統と習慣による価値意識が浸透していて、今まで注目されなかった一つの関係性なら関係性を他の関係性に対して拮抗的に高くもちあげるということは、すでに一つの主張だからである。たとえば戦いのさなか、勇壮な戦争画が好まれる時代に一人の画家が一輪の薔薇のみを執拗に描きつづければ、その薔薇はすでに垣根沿いに偶然咲いている一輪の花ではない。」(158-159頁)
「何が彼の規範なのか。それは凡そこの世において最もはかなく、最もうつろいやすく、最もとらえどころなく、最も頼りないもの、つまりは愛であった。人間の悲喜劇を彼は、力の葛藤や権威の変遷としてはみない。その者の運も不運もその者の手のとどかないところで決定されえてしまう、そういう立場つまりは女性の側からみようとする。」(161頁)
「百年の哀楽はすべて他者による、女性の側に立つこと、それは表の価値、政治そのものを底辺から批判することも意味する。」(161頁)
「李商隠の文学の幻想性も実は、確立された彼の立場、もっとも儚いものの側から現実を撃つ立場と密接に関係するものなのである。なぜならば、胸いっぱいに秘めた悲哀も、胸はりさけんばかりの怨みも、遂に現実を何一つ動かし得ないことが解ったとき、人は必然的に幻想的にならざるを得ないからである。冤罪の者のはねられた首が、血しぶきをあげながら相手に飛びかかったり、一人の女の悲歎が万里の長城をこわしたりする幻想を何故、人はいだくのか。それが現実には起こりえないからである。なぜ小説の文学、荒唐無稽な幻想が、痛めつけられる階層から生れ、痛めつけられた階層の共感をよぶのか。現実にみずからの負価を解消することができないからである。そして幻想的な文学がなぜひたすら男女の間という狭い管を通して世界をみようとするのか。もっとも儚くもっとも頼りにならぬ情念こそが、痛めつけられた存在の、最後の砦だからである。それは現実の組織にも体制にも何らの打撃を与ええない。だが悲しいことに、組織や体制のあり方が変化したのちの個人の胸をも撃ちうるのである。」(161-162頁)
「知己の死に遭うことの多かった現実の偶然を、いつしか内面において運命化し、いわばみずからを精神の僧職に位置づけるにたる必然性をも彼は持っていた。(中略)非在に対するより敏感な精神、それは実は、人間の諸価値のうち愛に執着することの陰画なのである。他者との関係性を利害や支配や快楽において見ず、愛情の相において把えたいと欲する価値意識の持主であればこそ、その関係性の断絶に敏感であり、その悲しみが彼の心絃を齢を重ねるに従って最もかなしい五十絃にまで完成させもする。人間存在の不安定性は、愛と死においてこそ、爆発的に啓示されるものなのである。」(183-184頁)
李商隠と石井とを同一視する訳にはいかないが、ふたりの男の世界観には通底するものを感じる。石井は「政治そのものを底辺から批判する」ことはしないが、ここで政治を別の言葉と置き換えてみれば良い。「百年の哀楽はすべて他者による、女性の側に立つこと」を辞さない石井の姿勢の、その先に対峙するのは“男”であり、“男社会”であって、それらへの批判は一貫している。これはある意味、政治よりもはるかに難敵だろう。加えて近年の石井作品には、知己との関係性の断絶と歳月の隔たりを中軸にすえるものが増えてもいる。『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)しかり、『甘い鞭』(2013)しかり、『GONINサーガ』(2015)もそうだった。愛するものとの離別を描く女性主体の映画を作ろうと模索し、結果、映画の「魔性」が発動して男である作者自身の周りにも激しい渦が生れている。渦がさらなる渦を呼んで逆巻いている。
その白波や陽炎を私たちは察知してしまうものだから、石井の作品を語ることはやがては作者の内奥に触れる段階に歩を進める事となる。関心は作品と作家の間をしなやかに、時に烈しく往還する。私たちの奥まった部分と石井世界は結線を果たし、否応なく共振していく。読み方としてそれを過剰とも暴走とも思わないし、そこに至らずに石井の劇画本を閉じ、映画を観終えた端から忘れていく人を私は残念と思う。
石井隆の「一輪の薔薇」とは何か、彼の作品が「陰画」であるとすれば何がそれを定着させたのか、石井世界が「青い玉」であるならば、それを覗き見する私たちは何を目撃しているのか。考えを廻らせると直ぐに発光し、返信されて来るものがある。静黙を貫く作家に対して、ただそれだけの理由で一切の思考を停止してしまうのは、飽食や浪費といった古い習性の名残りではないか。そろそろ私たちは重心を低くし、腰を据えて物事と向き合う時期と思う。少なくとも石井隆には、そうするだけの価値がある。
「詩人はその生涯の努力を、詩的な認識や措辞の深化にかけるとともに、また、みずからの主題と素材領域を常に拡大しようとする。同一表現を反復することが、文筆家の墓場である以上、絶えざる努力による領域拡大もまた詩人の不可避的な運命である。」(182頁)
『GONINサーガ』(2015)を前作の繰り返し、「同一表現を反復」しているとしか読めない人もいるが、その仔細に目を凝らせば、石井が「墓場」に近接した難しい場処にあえて自らを立たせながら、「絶えざる努力」で「主題と素材領域の拡大」を図っているのは明白だ。「不可避的な運命」に立ち向かっているとも感じられ、敬畏の念に胸が満たされる。どうしてそこまでして「墓場」にこだわるのか、そんな事も考えさせられた。
「詩のうちに含まれる認識上の価値や詩人の体験的真実を、詩の全体の結晶美を度外視して性急に摘出することは、あたかも妙なる音曲を奏でんがためのピアノを壊して事務机に使う愚にも等しい」(287頁)
ここは随分と痛く感じた箇所だ。私なりに誠実に石井隆という作家を読み解こうとしているけれど、急ぐあまりピアノを壊している瞬間がある。注意しなければいけないな、と深く反省させられる。先日の『GONINサーガ』の読み解きの中にも、実はそういった部分があったと分かっている。この場を訪れる人にはどうか鵜呑みはされず、御自身の目で世界を探って行ってもらいたい。
今回の読書のきっかけもそうだが、ウェブで思いがけない思念の交流が続いていくのは嬉しい「運命」からの贈り物と思う。過去からも、未来からも、思念の糸が投げ掛けられ、人の言葉が人のこころを勇気づけ、きっと優しく支えていく。業種や世代を軽々とこえて、また、生死を分かつ川を跨いで、私たちは確かに繋がり始めている。
雨が冷たさを増し、このところしきりに追い立てられるような気分だ。頻繁に此処に戻り、自由に想いを滑空させることも出来なくなっていくだろう。しばらく連絡が絶えても互いに元気な証拠と思って、各人の「運命」を生きていきたいと願う。
(*1):「高橋和巳作品集 別巻 詩人の運命」 高橋和巳 河出書房新社 1972 文中の括弧内は引用頁を指す。
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