2015年1月5日月曜日
“気狂い水”
新年会の会場を辞し、ほろ酔い気分で外に出た。よくは覚えてはいないが、時刻は零時を回っていたのでなかったか。凍った路面が靴底で砕けて、ばりばりいう耳障りな音が響いた。足を滑らせて頭でも打ったら大変だから、うつむいてゆっくりゆっくり歩く。人影はいっさい見当たらない。正月で気持ちのゆるんだ酔客はほぼ全員がタクシーで移動するから、道行く車はほんのわずかであるのだし、自宅まで大した距離ではなかった私だからこうして歩くのであって、普通は足元の怪しいこんな深夜に誰も出歩かない。
LEDの街灯に青く照らされた足元が、遠近感を失った目に砂漠となって映る。ある映画で茫洋とした砂丘を複葉機で越えていく冒頭場面があるが、それを不意に思い出し、束の間のトリップ感を楽しんだ。明後日からは懸命に手探る日常に戻らなければならない。ああ、こんな事だったらどこかに貧乏旅行でもすれば良かった、また、無駄に過ごしたと悔やみながら、瞳だけは砂漠を悠々と飛び続けた。
声がして振り返ると、若い男が立っていた。短髪を金色に染め、赤い毛糸の帽子を被っている。黒いジャンパーに黒いジーンズで随分と寒そうだ。吐く息が白く、顔面は蒼白であった。あれ、K君じゃないか、こんなところで会うなんて。
まさかそんなはずはない。K君とは昔勤めていた会社で出逢ったわけで、元気で暮らしているなら四十近くの中年男のはず。バンドを組んで夢を追い、その勢いのまま会社を飛び出して目の前から消えてそれきりだ。それにしても似ている。優しい男で、よくお喋りをさせてもらった。懐かしさに目を細めながら、半身をねじって耳を傾ける。K君とよく似た男(以下K君)は同じ言葉を繰り返した。今度は理解できた。「五千円出せ」と言っている。
鈍感なわたしはそれでも何度か聞き質して、ようやく状況を呑み込んだのだった。K君は私を脅しているのだ。誰も通らない夜道にふたりきり。このまま無視して背中を向ければ、たちまち足蹴にされて凍った地べたに転がる予感がする。もしかしたらナイフの一本もK君は懐に隠している可能性だってあった。財布持ってるだろう、出せよ、寄こせよ。K君は執拗にまとわりついて、私を睨んでくる。仕方ないから言葉を返して、諦めてもらうより道はない。(それにしてもK君、君は若いなあ、こういうのは相手をもっと選ばないと難しいのじゃないか。)
「俺を何歳(いくつ)だと思ってんだよ」と問うので、分からないよと応えると、K君は十六歳だと言うのだ。「小遣いもらえないんだよ、財布寄こせよ」と凄む、そんなK君に対して、年齢は関係ないこと、誰もが不況下で内実は苦しい思いを抱いて暮らしていること、わたしも色々と振り回されて頭もこころもいっぱいであること、五千円を稼ぐために大変な労苦を強いられる仕事も世の中にはあることを話した。
K君はそれでも態度を変えないのだ。かえって私の言動から酔っているらしい事に気付き、少し自信を深めたのかもしれない。なにを訳の分からないコト言ってんだよ、さっさと財布出せよっ、金寄こせッ。そろそろ私も限界に来つつあった。あのなあ、酔っ払いに気安く声をかけるのじゃないよ、どういう事になるか分からないのか。血を見ても良いと思った。どちらかが歩道に頭を叩きつけられて重症になるかもしれないが、これはもう仕方ないと思った。携帯電話のバッテリーは会場で切れていた。腱を切って指が一生動かなくなる、そういう事も避けられないかもしれない。それにしてもK君、これだけの上背の、暗い目をした男によく喧嘩を売る気になるなあ、君は勇気があるよ。
むしゃくしゃしているのはお互いさまだよ、大人の世界だって見渡せば死屍累々のとんでもない不況地獄だよ。係累が、友人が、血反吐を喉からしたたらせているのに、俺はなにもしてやれない。誰でも叫んで暴れたい気持ちだよ。酩酊してタガが外れた酔っ払いは限度をしらないんだ、危ないんだ、K君、そういう迂闊な声掛けはやっちゃいけないんだ。このうちいくつかは口にし、いくつかは呑み込んだ。
会場で配られたおみやげが入った紙袋を振り回し、K君のその横っ面を叩こうとした矢先に、ふと横に目をやると黒と白に塗り分けられた警察の車両が止まっているのが分かった。信号のある十字路だったから偶然に赤信号で止まっていたのか、それとも大声を上げる酔っ払いの喧嘩にうんざりしながら、様子をうかがっていたものか。駆け寄って窓を叩くと、若い警官がげんなりした調子で顔を出した。恐喝されていると伝えると、ようやくドアを開けて出て来てくれた。もしもあの車両の存在に気付かずにK君に手を振り上げていたら、私こそが暴行の現行犯で逮捕されていたろうと思う。色んな側面で救われたと思った。何かが見守ってくれている、そう信じられる一瞬だった。
恐喝というのは暴力を振るわれたとか、何か脅す材料があって金銭を要求された場合を言うのだが、と善良そうな小太りの警官はわたしに尋ねるのだった。そんなあ、怪我しないと助けてもらえませんか、ナイフだって持っているかもしれないし、怖かったですよ。警官はわたしの目を覗きながら続ける。大声出されて、両方とも酔っておられるようだし。相手の人から事情を聴いておきますから、お父さんはここから先に離れてもらえますか。どうも私の話は徹頭徹尾が信じられていない様子だった。
五メートル程も離れたところに立つ若い警官の背中越しに、K君が割合としっかりした調子で答えているのが聞こえた。あの人が急に声を掛けてきて、何だか訳の分からない事を話してきて、お金をくれるとか言い出して。ああ、これは駄目だ、早晩彼も解放されると思い、泥酔気味のお父さんにされてしまった私は早足に横断歩道を渡った。
急に警官が現われて、K君もかなり慌てたに違いない、良い薬になったのではないか。そういう解放感と同時に、K君が車両に乗せられずにそのまま解放されそうで良かった、という矛盾する気持ちが渦巻いた。言葉が正しければ十六歳である。このような無謀な試みをせねばならないK君の内情を気の毒に感じた。けれど、それならば懸命にその真情をまずは他人に訴えて、相手を共振させるよう努めるのが筋道ではないか。K君、君は確かに私を“脅した”んだ。本当に恐かったし、当惑したよ。
二百メートル程も離れたT字路に少し入って、暗がりの中、後方に目を凝らした。車両は結局のところ赤い警告灯を一度も点すこともなく、音もなく現われて音もなく消えたのだった。幻を見たような曖昧な気分だ。あいかわらず通行する車はなく、もちろん人通りも途絶えたまま。そのうち、ゆらゆら人影が動いて横断歩道を渡ってくるのが小さく見えた。K君がわたしの来た道を歩いてくる。帰り道が一緒なのだろうか、それとも私の後を追い、途中で電信柱かポストに寄り掛かっているか立小便でもしている丸い背中を探そうとしているのか。もしも後ろの方であったら、これは厄介だと思った。
正々堂々と闘うことなく警官に助けを求めた卑怯者に対し、K君が憤怒を感じて今度こそ足蹴りしたいと思っているかもしれない。時おり小雪が舞っている。目を凝らせば、わたしの足跡を新雪の上に辿ることは難しくない。ここから家まで普通に歩けば一時間程度だが、酔った足でもあるし、その間に追いつかれない保証はない。路地裏の、しんと寝静まった町をこれから抜けて行かねばならない。さらには氷温に近い水を湛えた堰が道脇をざぶ、さぶりと音たてて流れる場処を通り、暗い霊園の直ぐ横だって通る予定だ。そんなところで乱闘になったら、それこそどちらかの命に関わるだろう。
K君が復讐心を煮えたぎらせ、怒髪、天を衝く思いで実際いたかどうか、あの時の私も今こうして振り返っている私も知る術がない。警官の説得がどういう内容のもので、それで馬鹿な考えを振り払う局面に至ったものかどうか、それもまるで分からない。確実に分かっているのは私の歩いた道をそのままにK君が近付いて来ている、その事実だけだった。本来の慎重過ぎる性格の私と、アルコールと緊張でひどく凶暴化した私とが綱引きを続けた。K君に馬乗りになり、その首に手をかけ、硬い路面に頭を叩きつけている自分を思い描いた。そうしないといけない、という淀んだ感覚がどこかにあった。
T字路でわたしの姿を認めたK君は驚いた素振りをまったく見せなかった。そのまま私に近寄ってきた。私も寄って行った。ズボンのポケットから折り畳みの財布を出して、五千円札を引き出すと黙って差し出した。恐喝に屈したつもりはなかった。正直言えば、勝てると思ったからだ。これはK君にやろうと思った。これで馬鹿な考えを捨てて、優しい元通りのK君に帰ってもらいたかった。
彼はするりと受け取り、黒いジャンパーのポケットに仕舞った。悪かったな、と私は言った。警察に頼り、彼らを君に押し付けて悪かった、という意味合いだった。K君は私の肩を小突いてきた。それも執拗に何度も繰り返し、終いには私の膝あたりを蹴って来たのだった。帰れよ、さっさと家に帰れよ、そう言ってK君は私を小突きまわした。だんだん強く、激しくなった。──やろうと思った。路面で彼が気絶してしまっても、そのまま打ち捨てて行こうと思った。いや、そうなるのは自分の方とも感じた。そういう夜なんだと思った。もう壊して良いのだと感じた。私は構えた。正月から喧嘩したくないんだ、そう言い放った辺りで、私がまるで気狂いの状態にあるのを彼は薄っすらと分かってくれたようだった。
あのときK君が後ずさりして来た道を戻ってくれなかったら、そういう夜に間違いなくなっていた。帰れ、家に帰れ、さらにそう叫んだ彼は携帯電話を出すとどうやら仲間と話を始めたのだった。金をもらった、と話している。何故だか分からないけれど、酔っ払いがくれたんだ。繁華街を目指して歩き出したことが、全身の浮ついた雰囲気から読み取れた。そうか、それで早速飲むのかと少し残念に感じながら、だんだん小さくなっていく黒い影を見守った。がんばれよ、とその背に告げた。
今夜のことは彼の記憶に残像を結ぶものだろうか、それとも、雪のようにあっさりと融けて消え失せるのだろうか。これから彼が使うだろうあの金は、綺麗な金だろうか、それとも汚い金だろうか。断固とした態度を貫き、一切渡すべきではなかったようにも思えて来て、私は自分自身を薄汚い偽善者と感じてならなかった。金を摑ませたのは、その事で彼を生涯縛りつける狡猾で薄情な罠ではないのか。結局のところ手を汚せないどころか、汚れた記憶を忍び込ませる醜悪な卑怯者でしか私はないのだ、と、堂々巡りが始まって自分を責め立てた。だから酒は飲みたくないのだ、気狂い水としか思われない。
十字路まで待てずに車道を斜めに渡り始めた赤い帽子姿のK君の小さな影は、凍結してきらきら光るちょうど真ん中あたりで大きく足を滑らせ、ばったりと横倒しになった。あのぐらい派手に転倒したら、肘かどこかを痛めたかもしれない。大丈夫だろうか。しばらくそのまま動かなかったが、やがて、よろよろと立ち上がるとそのまま街の方へと消えていった。暗闇のなかにすっかり溶けてなくなるまで見送った私は、それでも恐くて後ろをときどき振り返りながら、墓場や陸橋や警察署の前をぐるぐる迂回して、普段の倍の時間と距離をかけて家路をたどった。
モラルというのは押し付けられるものではなく、自分の中で組み立てるものだ。私の場合、K君ほどの年齢ではなくもう少し薹(とう)が立っていたが、職場の環境につぶされないようにする目的から自分の内部のモラルを崩しまくった時期がある。あまりに壊し過ぎたせいで、元に戻すまで十年くらいかかった。その時のがさがさした獣のような私を思い出すと、K君をとてもじゃないが非難出来ない。
この前の夜を帳消しにはもはや出来ないのだけれど、もしもK君にこの想いが伝わるのであれば言っておきたいことがある。人間はやった事をそうそう忘れることは出来ない。善行も悪行も、やさしい声掛けも暴言も、いずれも頭の奥のレコーダーに了解なしに刻まれ、フラッシュバックとなってその人を苛む。その映像や声の再生を、人間が自由自在にコントロールすることは到底出来ない。私だけじゃなく、多くの大人がそうなんだ、そうして苦しんでいるんだ。石井隆の『黒の天使 vol.1』(1998)なんか観てごらんよ。記憶に押しつぶされていく魔世という名のおんなの末路をご覧よ。フィクションは絵空事という意味じゃないよ、人が人に見せないでいる“本当”が存外描かれていたりするんだ。
どうかもっと大事に自分の手足を使って欲しい。酒や薬で記憶を掻き消そうと試み、なかなか思うようにならずに気狂いのように吼えずに済むように、絶えず胸の奥の洞窟に据え付けられたレコーダーを意識し、そうして慎重に言葉を選んで、その今の姿を刻んでいってもらいたい。人生はほんとうに一枚のディスク、それも上書き出来ないタイプのそれだ。ひとりひとりが歌手なんじゃないかと感じるんだ、最近になって特にそう感じるんだ。大変だと思うけれど、どうか頑張ってね。
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