2014年12月2日火曜日

“もどかしい物”~石井隆の雨について(2)~


 煙雨なり廃屋のもろもろに心を丸ごと託した、いわば“正気ならざる背景”が噴きあがり画面の隅々を充たしていく。それが石井作品の醍醐味のひとつであるのだけれど、ここで補足を加えないと誤解を招きそうだ。石井が描くところの雨や風のすべてが、独特の不自然さをもって立ち現れる訳ではない。照明のスイッチが入るように、はたまた夕闇にまぎれて幽明の境を越えてしまうがごとく世界は豹変するのであって、それ以前の段階では単純な雨らしい雨のざわめきを私たちは視とめることになる。
 
 たとえば【白い汚点(しみ)】(1976)で食堂を手伝い、岡持を下げて配達にいそしむ名美にむけて斜め前方から降りしきる雨というのは、これは“正気ならざる背景”とは到底呼べない。冷たさに耐え、片手を頭部に添えて髪の乱れを気にしつつ駆けていくこの時の名美にとって、雨は厄介なもの、気持ちの通じぬ単なる自然現象に過ぎないのだし、これを明確に意識し身構えている。

 また、劇中に雨の景色が幾度か挿入される【象牙の悪魔 赤い微光線】(1984)にあっては、いずれも雨粒は人物をひどく慌てさせ、傘を差し、走らせており、日常的な性格を宿していた。映画でも同じであって、たとえば『天使のはらわた 赤い閃光』(1994)や近作『甘い鞭』(2013)の導入部において私たちは帰宅途上の少女を足留めする激しい雨を目撃するのだが、そこでは濡れることを徹底して嫌い、恨めしげに天を睨む少女の様子が描かれていた。これ等もごく一般的な寸景に過ぎない。(*1)

 この時の雨は彼女らを極限へと押しやるわけだから、日常描写とはもちろん呼びにくい。しずくをたらした困り顔やよろける後ろ姿、肌に貼りつく濡れた衣服があり、それを物陰からそっと見つめる男たちがいる。ほの暗い性欲に徐々に支配され、抱きしめたい、重なりたいと願っていく男たちの一方的な夢の翳(かげ)りがここでは刷り込まれてある訳だから、“一般的”と形容するにはいささか手が込んだ景色になっている。石井の劇に頻出する、扇情、衝動、破壊欲といったものと直結した雨であって、観念的で突飛な場面と読み手の多くは呼び表わすだろう。

 けれど、思い巡らしてみれば、こういった雨の描写は小説や映画の常套手段であって石井独自のものではない。屋根を叩く雨音や濡れた草むらの甘く煮焦がしたような匂い、照度センサーが働き不意に灯る街路灯の眠そうな佇まい、泥土のように黒く沈んでいく屋内、湿気を吸って気配を急に強める畳のおもて、遠くから次第に歩み寄る太鼓みたいな雷の音。そういった雨にまつろう諸相は、身体の奥深くに巣食う荒ぶるものに火をつけてしまい、誰でも彼でも調子をいくらか狂わせるものだし、人によってはおかしな方向へと踏み込んでしまうきっかけとなる。そんな手に負えない本能の噴泉は私たちの日常で延々と繰り返されてきたものであって、作劇の世界においても特段目新しいものではないだろう。(*2) 

 強姦という淫虐な眺めが近接してはいるが、上にあげた石井作品の幾つかの場面でもその点は全く等しい。恋愛映画などを観ていると、美術館の回廊あたりで男とおんなが出会い、妙に惹かれ合い、外に出たところ生憎の雨模様、傘を持参しなかったひとりに片方がさっと差し出してそこから二人は抜き差しならぬ仲になっていく、そんな手垢にまみれた描写に付き合わされる時が今もあるけれど、あれなんかと漂う気配はそう変わらない。

 ちょっと分かりにくいかもしれないが、“もどかしい環境描写”にまだ留まっているのであって、もの怖ろしい“正気ならざる背景”には至っておらない。石井の雨、そして背景の真骨頂とは、人物の内部から照射、放散させて人物と隙間無く連なり、“もどかしさ”からもはや脱したところのものだ。追いつめられ、突き抜けてしまった者だけが手に入れる全一の景観であって、同じ石井世界の枠内ながら両者は一線を画する。


(*1):『甘い鞭』は原作となった大石圭の小説に沿って多くの場面が撮影されていて、事件の発端となる激しい雨にしても最初から盛り込まれている。この点だけをとっても雨と扇情、魂の傾斜というのは普遍的な組み合わせであって、石井の専売特許ではないことが分かる。
(*2):ウィリアム・サマセット・モーム William Somerset Maugham の短篇「雨」の中には、雨季に入った島で旅行の足を止められた男が、窓の外を独り眺めて物思いにふける箇所がある。「マクファイル博士はじっと雨を眺めている。漸く神経がじりじりしかけていた。あのしとしとと降る英国のような雨ではないのだ。無慈悲な、なにか恐ろしいものさえ感じられる。人はその中に原始的自然力のもつ敵意といったものを感得するのだ。(中略)何か大声にわめきたてでもしなければいられないような気持になる。かと思うと今度は骨まで軟かくなってしまったように、急にぐったりとなるのだった。」(中野好夫訳 新潮文庫 五十刷 41頁)これなども雨に降られた人間の深層が乱される様子、じたばたした具合をよく捉えているのだが、この程度の焦燥なり混迷は私たちにも常日頃起こるのであって奇異を覚えない。人には間違いもあれば、気違いだってあるものだ。




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