劇画制作の最終段階で石井隆は「カンタッレッラの匣(はこ)」(1991─92 )という幻想譚を編んだのだったが、あれに描かれていたマネキン人形、等身大の三次元CG映像、そして狂女といった各キャラクターの乾いた横顔というのは、思えば“名美泣き”から涙の筋を奪った面影であり、嬉しいのか、悲しいのか、それとも怒っているのかを読み解けないのだった。また、単行本でトリをつとめた傑作【主婦の一日】(1991)における名美は、夫と愛人の浮気現場を急襲し、包丁で滅多刺しして両者を殺害した挙句に自死の道を選ぶのだったが、そのような烈しい情動の時間をかいくぐっていながら一滴の涙も落とさず、嗚咽のひとつも漏らさない。
雑誌の連載当事には、そんな“乾いたおんなたち”の出現が湿度あるこれまでの作品と容易に連結出来ず、特に人形やCGの跋扈(ばっこ)する展開に戸惑うところもあったのだが、こうして涙を熱視(みつ)める時間ばかりを経て思い至るのは、彼らこそが名美と呼ばれる存在の“最終局面”であったという厳かな感懐である。劇画制作の区切りの時期を迎えて、石井は意識して“その先の名美”を描いた可能性が高いように思うし、そうであれば合点の行くところが随分と多い。
「カンタッレッラの匣(はこ)」の一篇【ジオラマ】(1991)にて石井は、性暴力の犠牲となり、以来十五年の長きにわたって悪夢に獲り込まれた狂女の症状を精神科の医師に解説させるのだが、その中で「彼女が本来辿り着くべき地平にあのショックで一足飛びに辿り着いてしまった」という深度のある言葉を添えていた。“本来辿り着くべき地平”という言い方は、誰でもが到達する地平という意味合いであって、異常であるとか、特別であるとかのニュアンスを含まない。他者との関係がきしみ歪んで双方をひどく傷つけ、大いに疲弊させた末に到達する一種の醸成された、寂れた境地をここでは指すように思う。
舞台や物語の風合いをさまざまに工夫しながらも、石井隆という描き手は人間のこころの深層をこねくり出すことに勉めてきた。そんな男が“本来辿り着くべき地平”という段階が人の生にはあって、其処に降り立ったとき面体は硬変し、嬉しいのか、悲しいのか、それとも怒っているのかを読み解けない無表情に近付くと語っている。
手も足も出ない状況に置かれた悔しさを世界に向けて発信し、自らに代わって復讐をしてくれ、力を貸してくれと訴えるとき、人は涙を道具に使うと言われている。これに応えてすぐさま同調し、団結して難敵に向かっていくことで私たちの先祖は生き永らえて来たのだったが、いくつも周回を重ねることで最終的に人は道具としての涙を置き、助けを求めぬ清冷の境地に分け入ってしまうとどうやら石井は捉えている。そもそもが人は人を助けられない、という諦観が根底に置かれてあるのだろう。涙は流れても、おうおうと声上げて泣くことはない、そういう域に飛び込んでいる。
近作『フィギュアなあなた』(2013)は連作「カンタッレッラの匣(はこ)」の息吹きを色濃く反映させた内容であり、マネキン人形が突如生命を与えられて若者の危機を救い、同棲を始めるという奇想天外の御伽話(おとぎばなし)であった。当惑を隠せない観客も出て、こんな石井隆は観たくないと書く者もさえ現われる始末なのだが、それは視野角の微妙なずれのようなもので立ち位置を少し変えれば得心する話なのだ。私の目には『ヌードの夜』(1993)や『GONIN』(1995)といった峰々と稜線をなだらかに繋いで、神々しく光って見える。
私たちはあの人形(佐々木心音)の乾いた瞳に、一周どころでなく何周も先を走ってひどく硬変してしまった名美の内実を探って良いのだし、どう足掻こうにもおんなに追いつけず、夢にも似た併走を一旦終わりにするしかなかった若者(柄本祐)の暗澹たる表情に、後追いする村木の変わらぬ純真を重ねるべきなのだ。
近いうちに再度、香しき百花繚乱のドラマを編んでくれると信じるが、石井が映画雑誌のインタビュウで“遺作”とまで語ってみせるのは、おそらく人の情念の最終形態と解釈する姿をおのれの映画制作の最終段階で満を持して描いているからに相違なく、そういった意味でも迂闊なことは語れない底知れぬ作品が『フィギュアなあなた』のように思われる。
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