2011年10月29日土曜日
“背景”
少し前のことになるが、土屋能風(つちやよしかぜ)(*1)の個展会場に足を向けた。端正な顔立ちの男がひとり受付に座っていて、来場者へ穏やかに挨拶しながら手元で何かせっせと描いていた。もしかしたらと思って声を掛けたところ、やはり土屋当人であった。
不粋な質問に対しても笑顔で応えてくれる。また、創作におけるこだわりや作品の狙いなども気さくに話してくれた。欲張り過ぎかも知れぬが、こういう“作り手を知る時間”が無性に嬉しい。充実した休日になった。
ぱっと目にはちんまりと小さい作品が並んで見える。いずれは大作にも挑みたいけれど、いまのところはA4かA3程度の紙を素地に選んでいるとのこと。されど、侮(あなど)ってはいけない。ぐぐっ、と目を寄せてみてようやく分かるのだけど、鳥肌立つほど緻密な描き込みが為されており、どれもこれもが独特の厚みを維持している。
描写の対象は圧倒的に若い女性であって、髪、爪、瞳、唇といった身体の重要な部位が心血を注いで再現されて視覚をいたく刺激する。皮膚の皺、骨格の歪みがそれに加わり、衣服や寝具の縫い糸や布地の風体が重奏なって迫り来るものだから、見応えは十分だ。時におんなたちはギターを掲げてポーズをとるが、その楽器もまた異様な執着をもって画面に組み込まれており、存分に存在感を主張する。
モノクロームの世界に陶然と佇み、また這いつくばるおんなたち。多くが伏し目がちであるし、口元も硬い。一歩間違えれば醜悪な悪夢におちいるところが、妙に爽やかな晴れ晴れとした、さらさらと乾いた気配を放出して気持ちがいいのが不思議である。作者の気性が刷り込まれているのかもしれない。世界を肯定し、生命(いのち)を祝福しているように感じられる。
同じ鉛筆画で著名な木下晋(きのしたすすむ)は確か二十もの種類を準備して、硬軟、濃淡を使い分けていると聞く。対して土屋はHBの鉛筆しか使わず、線描への突出した執心だけを武器に果敢に斬りこんでいて、よくここまで拮抗し得るなと感嘆する、というか、固定観念が砂山の崩れ去るように消えていく、その感じが心地好い。
さて、受付の小さな机で土屋が描いていたのは歴(れっき)とした“作品”なのだった。はからずも貴重な工程を覗き見たわけだったのだけど、素人目にもずいぶんと変わった描き方をするのが分かる。一本の鉛筆しか使わないことも含め、おそるおそる感想と疑問を口にすると、土屋は特別の秘密はないからと打ち明けてくれた。
絵は独学であること、建築を学んでいた時期があったこと、その技法を少し踏襲していること、だから使う紙も鉛筆も建築用図面を起こす際の専用のものであること───。建築の手法でおんなを描いている、まるでベルニーニみたい。かっこいい。
土屋の絵のなかに住まうおんなの髪は、石井隆の名美のそれと似て一本一本に血と神経が通っているように見える。うねってさわさわと流れていく様子は凄まじく、そこだけ見つめれば両者は引き合うものがある。だけど、決定的な段差があると囁く声があり、さて、それは何だろう、両者の間を繋げ、逆に穿(うが)つものがあるとすれば何なのかを探(し)りたくて、再度画廊をゆっくりと廻ってみた。
石井隆も独学のひとである。幼少時より油絵をたしなみ、画集と手塚治虫に代表される漫画に囲まれる環境に育ったものの、専門の教育を受けた経緯はない。引き出しやパレットを十分に画材や道具で満たした上で小出しにするのでなく、とりあえず手近なものを使い、試行錯誤しながら戦っている“がむしゃら”の風情がだからあって、それが宿命とか欲望とかいった化け物に翻弄される人間の焦燥や躍動、それこそ“がむしゃら”とうまく噛み合ってドラマを増幅していると感じられる。土屋の物腰は柔らかく“がむしゃら”という形容は当てはまらないのだけど、先が読めなくてわくわくさせるところは重なるように思う。
「増刊ヤングコミック」に載った一話完結形式の小編が衝撃をもって読者に受け止められ、圧倒的な支持のもと連載へと跳躍を果たし、そこでようやく落ち着きを見せていく石井であったが、それまでの石井はといえば仕事を選ばず、寄せられる求めに応じて実にさまざまな画材とタッチで絵を描いては雑誌に載せる時期が長かった。なかに印象深い“鉛筆画”の一群があって、これなども土屋との共振を誘うものがある。
では、両者の相違や段差はどこかといえば、あくまで私見に過ぎないのだけど、次のような箇所ではなかろうか。
ひとつは対象に関して働く“深慮の行方”が異なっている。土屋は写実をきわめる己の画風を強く意識してか、被写体の胸部や腰部に対する筆入れを回避していく。対象に肉薄していないという事では決してなく、モデルと作者とが互いににじり寄ろうとする距離感を意識させて、かえって視る者をどぎまぎさせるのだけど、“守ろうとする一心”が視線を捻じ曲げているのはどうやら間違いない。“おんな”というものがその奥に潜ませる荒肝(あらぎも)や矛盾、途方のなさ、極端さといったものを手際よく封印しているように感じられて、結果的に画面から滲み出すものを抑えている。
石井は自らを“奪う者、探るもの”の役回りに任じ、対象が隠そうとする部位(ただし無理に暴くことはしない)の気配を通じて、内部に根差してのたうちまわる“清算し切れぬもの”や“胎動し続ける衝動”なり“おそるべき多層”をあまねく捉えようと試みる。而して体液や血液、吐息、紫煙がとめどなく滲み出す。もうそうなると手に余り、抑えられず、到底守れ切れずに途方に暮れる、そんな流れである。
たとえば石井の画集を手にして一枚一枚の絵に視線を注いでいったとき、石井らしいと感じるものと何か物足りなさを覚えるものが混然とする訳だけど、乱暴を承知で仕分けてみれば前者は圧倒的に黒く、後者は白い絵が多い。(土屋の絵も白い)
闇であれ、雨であれ、樹海であれ、みっしりと背景が埋まった石井の絵にはようするに“守り”がない。無防備と感ずるときもあれば、世界に犯されている、揉みしだかれているような絵もあって、どんなに泰然として振る舞ったところで“おんなたち”は独立を保てず劣勢の戦いを強いられて見える。守護する騎士はおらず、大きな後ろ盾もなく、彼女たちは世界に染まり交わっていくしかないのだ。
“守りえぬもの、寄り添い切れぬもの、互いに消耗しながらも併走するより仕方ないもの、こころ配るしか道はないもの、生き別れるもの”──包囲された世界といのち尽きるまで相互干渉し続ける、それが石井のおんなの宿命であるし、石井のおんなをみつめる男たちの運命である。
石井が世に現われた際の衝撃なり“ひっかかり”を私は世代的に体験できなかったのであるが、こうして観る土屋能風(よしかぜ)の絵のような“ひっかかり”を当時の誰もが受けたものだろうか。そんなことを考えると、ちょっと嬉しい。
変転しながらも独自の地平を石井が連ねたように、土屋もまた想像し得ぬ変幻を繰り返すことになるのだろう。目を凝らさねば見えぬ細密な刻印、ほつれる縫い糸、ゆらめく虹彩、白く照りかえす爪、きらやかな髪の流れを目で追いながら可能性の拡がりと今後の波乱を想い、あえかな羨望も実は覚える。素敵な人生と思う。変わっていく土屋を追いかけ見切る時間は私にはないかもしれぬが、期待もし、ひそかに応援もしている。
(*1):土屋能風 オフィシャルページTRUESENSE
http://wind.fool.jp/index.htm
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