2011年6月30日木曜日
“一筆書き”
繰り返しとなるが、石井世界には“たおやかな結束”が存在する。単体でしっかり完結しながらも、あちらの劇画こちらの映画とつながって面影を共有していく。雨や浴室、悪夢、階段、ビニール傘──潜航艇のエコーよろしく闇の奥から返されるものは多種多様であり、石井世界と向き合った歳月の幅や執着の度合により、人それぞれに見え方は異なる。
同一の作り手である以上、癖や好みが立ち現われるのは当たり前と捉える声もあるだろうが、諸物の再来を越えて、微妙に相似した“筋運び”があったりしてこれは一体全体何だろうと思う。既視感(デジャ・ヴュ)が消え去らず鼻先に居座るような、妙に高揚した心持ちになったりもする。
社会(または組織)の底辺に被写体を絞りこみ、目線を思い切り下げている結果であろうか。知己の俳優と信頼する技術者で周りを固め、完成度の高い絵作りを貫徹するためでもあろう。恋情の焔(ほむら)が衣にめらりめらりと燃え移って心身をことごとく焼き苛(さいな)む、そんな激しい話を綾織っている最中(さなか)に於いても決して酔いどれない、守備範囲を逸脱しない、そんなプロの矜持が読み取れる。辣腕の外野手、それとも手堅い勝負師と言ったところか。どこまでも“負け”がないのが、石井隆だ。
同時に積年の鑑賞を経て興味深く想うのは、石井隆という人間の生身(なまみ)、同時代を生きる精神と肉体のあえかな照射である。妖しく魅惑的な作品世界の“連結”には、作者の内部に生じた揺らぎや堆積に由来するものが宿っている。最近作『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(以下『愛は─』2010)が好例だ。例によって『愛は─』の放つ振動は他の石井作品へと波及し、記憶の淵へ私たちを誘(いざな)っていくのだが、微妙な変幻が視とめられる。たとえば、“バー「あゆみ」”の奇妙な構造とそこで為される獣染みた交合について思い出してみよう。
主人公“れん”(佐藤寛子)が幽閉されている店の最奥部には、客の求めに応じて特殊なサービスを施す小部屋が設けられている。花街の其処此処に息づくからくり細工の小箱みたいなもので珍しくはない。けれど、ステージやカウンターの据えられた主要部分と同じ一階に位置しており両者間に壁がなく、印ばかりのプラスチック製の簾(すだれ)がぶら下がって曖昧に仕切っているのは、見ていて“不自然”でざらついた手触りがある。
第三者の息や視線が察知されてようやく発奮する御仁もおられるだろうし、接客の様子を内からも外からも眺めて愉しめるようにした店側の創意工夫と感じられなくもない。消防法の適用を回避する目的で壁を排除したのかもしれず、考えればいくらでも言い訳は立つ──
ああ、もう辛気臭いなあ、そういう店なんだからさ、楽しめばいいじゃん、ね、こっち来て飲みなよ、壁なんかさ無い方がすっきりするのよ、人間だって会社だって、男女の間だって何だって!そうだろ?それにご覧よ、こっちは女だけだろ、いざとなったら可愛い妹を助けに飛んでかなきゃなンないじゃん、それぐらい察しろよ、バァカ!と井上晴美に蹴散らされそうな気配だけど、ごめんね、やはり私はこんな風にしか楽しめない。
客へ身体を提供して何がしかの報酬を受け取る小部屋は、取締りの急襲を避けるために板戸の奥に設けるのが常識であるから、「あゆみ」では階段を登った二階(風呂もあり好都合)に作るのが常道だろう。そうしなかったのは薄々面倒な事態に感づきながら扉を叩いた代行屋(竹内直人)の眼前に、“れん”と客との交接、自壊的で果てなき淫事を否応なく提示するためであるのだろう。内心衝撃に膝折れ嗚咽しながらも二枚目を気取って背を向ける“村木哲郎”と、男に組み敷かれ貫かれながら横目で様子を窺うおんなの構図は、そうだ、まぎれもなく『天使のはらわた 赤い教室』(1979)の村木と名美の再現ではなかったか。(*1)
酔客にまぎれて忍び込むのではなく探偵として大見得を切る流れのなかで、心寄せるおんなのあられもない姿態を眼前に展開させるには、こんな奇妙な間取りを準備するより手立てはなかった。それ程の無理をしてまで石井は『赤い教室』と『愛は─』を結束させて、『赤い教室』の“その後”を描こうと試みて見える。
石井隆の劇にさ迷う男女をざっと総覧するならば、その多くは互いを血族、分身、鏡像と見定めたうえで霊肉一致の暮らしを実現するに至らず、“死別”して離れ離れとなっていく。“生き別れ”も例外的にはあるけれど、指折り数える程しかない。そのひとつが『天使のはらわた 赤い教室』であった。
男の生理ではおよそ成し得ない地獄の表出に声もなく、“曖昧に空間を仕切る”襖の奥からただただ両手を合わせて跪拝するしかなかった村木(蟹江敬三)であったけれど、あれから三十二年、今どこで何をしているものか。震災で紙の供給が滞り、頁の割愛を討議する編集会議に明け暮れているだろうか。あのときの名美(水原ゆう紀)はどうしているだろう。土地開発で辺りはすっかり様相を変えている。苦界“バー「ブルー」”は跡形もなく消滅したが、あの後、きれいに脱出できたろうか。放射線量の調査結果の公表に一喜一憂しながら、何処かで生きているのだろうか。
魂の輪郭や模様は変われども、相応にたくましく元気にやっているに違いないと思っていた。歳月が痛手を徐々に癒し、もしかしたら名美も似合いの男を見つけて家庭に入り、母親となって笑顔で暮らしているのではないか。そんな“生き別れ”の夢想を甘ちゃんの私は『赤い教室』に抱いていた。
前作『ヌードの夜』(1993)の終盤、波間に沈む名美のドイツ車を追って村木(竹中直人)が為した埠頭からの跳躍は、【おんなの街 雨のエトランゼ】(1979)で身を投じて以来、累々と築いてきた名美単独の墜落に追いすがり救済せんと踏み出した男の“屋上からの一歩”であったと解釈しているが、十八年という時空を経て再登場した村木哲郎(竹中)が、今度は、雨で生じた小さな水たまりを跨いでおんなの元に駆け寄っている。
結果はどうだ。後追いさせて、“生き別れ”という乳白色の甘い未来を石井は粉砕して見せたのだった。物語の顛末を“死に別れ”へと導き、男の退路をことごとく断っていく。近作に見られた永久軌道、つまり“狂気”への埋没も銃弾の一撃であっけなく葬り、おんなの最後の拠りどころさえも消散させていく。『愛は惜しみなく奪う』とは、とことん厳しい物語であるのだが、石井の内部に堆積したものがあのままの、三十二年前の雨降る夜の“生き別れ”の情緒をもはや看過出来なくなったのではあるまいか。
裏社会、演歌、銃火と鮮血、恋焦がれる夜、霖雨に煙るネオンサイン、霊魂の招来、おんなの吐きだす紫煙、男の昏いまなざし、潮の匂いと白々と明けていく空──石井世界はむごたらしくも華麗なファンタジーであって、どこをどう切っても石井隆の実生活とは切り結ばない。
まどろこしい政治や浮き世から隔絶した娯楽活劇ながら、しかし、だがしかし、最後まで追い出せないのが作り手石井隆の奥底である。それは一点集注して明け暮れる“映画”への自問自答に光を送り、内容を微かに転進させていく。私生活とは最も遠く離れた世界を構築していながら、石井は最も近しい内奥までを映画に捧げている。
『愛は─』をもって石井隆の華々しい“復活”と称する意見があるが、わたしはそうは単純に思えない。墨の尽きれば新たに筆先を塗らすにしても、人間の内実は“一筆書き”のようにして次へ次へと進むしかないのだ。外観をこれまでの作品に連ねながらも、解釈や結末は変えていくしかないのであって、決して単純に“元に戻る”という訳にはいかない。回帰でもなく復元でもなく、螺旋を描いて空の高みに昇って行く、そんな風に独特の世界観を脳裡に想い描いている。
(*1): 『天使のはらわた 赤い教室』 監督 曾根中生 1979
2011年6月26日日曜日
“たましいの内視鏡”
2004年公開『花と蛇』以降の映画作品の特徴として、おんなたち(杉本彩の静子、喜多嶋舞の名美、佐藤寛子のれん)を襲う艱難辛苦が上げられる。元々石井世界にたなびく墨色の濃淡ながら、酷薄さはいよいよ増して来た。内奥に抱える緑土がたちまちにしてひび割れ荒廃していく様子を、石井は“真正面”から臆することなく捉えていく。(*1) いやいや、言葉が足らない、そんな生やさしいものじゃなかろう。最近作『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(以下『愛は─』2010)を振り返って、石井がこのところ執拗に押し進めている過酷な企てを再確認してみる。
“れん”という逆境にまみれた少女がいる。長ずるにつれ逞しさを増し、群がる男たちをいい様にあしらっていく。されど、守銭奴や肉欲に支配された男たちの追尾は執拗であって、どうにも振り切れずにひたすらもがく日々だ。自宅は文字通りの修羅場と化して久しく、実母(大竹しのぶ)や義姉(井上晴美)ですら味方とは言い難い。四面楚歌となった“れん”は偶然知り合った代行業の男(竹中直人)をたぶらかして、暗いしがらみを一気呵成に清算する秘策を練り始める。かい摘まんで話せば、そんなお話である。
大団円は採石場跡の巨大な地下空間に設定されていた。乾いているのか湿っているのか、暑いのか寒いのか、夜中なのか、陽はとうに昇ったのかまるで判然としない不可思議な景色が続き、それだけで映画的な高揚が凄いのだけれど、あえて時系列的に整理してみればこの採石場跡地、劇中“ドゥオーモ”と呼ばれる場処が眼前に広がったのはふたつの局面であり、ひとつは主要な人物がこぞって集結するラストシークエンスがあり、それとは別に“れん”が単身訪れ、一糸纏わぬ姿となって自らを鞭(むち)ではげしく打ちすえて、痛々しい赤痣(あざ)を白い背中や太腿に刻む場面である。
ここで繰り広げられるおんなの自傷行為は代行屋竹中の憐憫をまず誘い、何とかしてあげたいと焦心させ、挙句の果てはべろべろに惚れさせ、自らの忠実な僕(しもべ)に為さんと目論んでの拙(つたな)くも懸命な自己演出なのだけど、時間軸からしてみればおおよそ劇の真ん中あたりの光景となる。被さる独白によれば「折れそうになると一人でここに来るんだ」(*2)とあるから、孤立したおんなにとっての唯一の避難所としてこの“ドゥオーモ”が度々機能していたことが読み取れる。
この隠匿された“ドゥオーモ”詣(もうで)に絡み、劇場公開直後から疑問や苦言がウェブ上に見られた。おんなは運転免許を持っていないのである。すがり付く影が複数あるが、いずれも辟易して距離を置こうと願う男ばかり。タクシーを雇って往復したとも思えない。鬱蒼とした樹海の奥に位置するという“ドゥオーモ”自体の特殊性がある。
演ずる佐藤寛子は目鼻立ちの整い四肢のすらりと伸びた娘であって、清楚で瑞々しい空気を素肌に湛えた、見た目には良いところのお嬢さんである。いざともなればヒッチハイクは雑作なかろう。しかし、自殺の名所としてつとに知られたこんな場所で、道は途切れ車も辿り着けぬそんな山中で、さよなら、元気でね、と手を振り笑顔で別れる乗せ手はそうそういない。じっと帰りを待ち続けるか、そこまでしなくても心配のあまり携帯電話で連絡し、警察に保護を要請してしまうのが関の山だろう。どうやって洞窟に辿り着き、どうやって帰還したのだろう────
探偵ごっこの末に修羅場たる自宅兼店舗にようよう到達した代行屋に、折悪しく(それとも絶妙のタイミングか)酔客との交合する様を目撃されるのが夜中の一時を回る頃であり、夜が明けての同日夕刻、雨に濡れそぼった姿で代行屋の住まう倉庫まで行き着き、扉を重苦しく叩くまでにはたっぷりと時間がある訳だから物語は成立しなくもない。行きはタクシー帰路はヒッチハイク等、どうとでもなる。都心から樹海まで順調に車を飛ばせば2時間程度。空がすっかり明るくなってから行動に移しても帰還はかなうだろう。こんなところで大丈夫なの、ええ、この先に父のコテージがあって皆が待っているから、心配してくれて有り難うとか何とか運転手に言い繕えば誤魔化せもするだろう。
元々からして石井作品の絵画的特質を見慣れてもいたので多少の噛み合せの悪さはものともしない私であるから、そんな風に自分なりに納得し、ウェブ上の瑣末な指摘を鼻で笑い受け流していたのだった。
それは間違いである。石井隆の世界を読み解く鍵は“不自然さ”にあり、受け流しては決していけないのだった。自動車を駆らねば決して行きつけぬ場処に、免許を持たぬおんながたった一人で度々訪れているという“不自然さ”を感知し、根気よく掘り進めていくことが『愛は─』という作品の真の認識へ結束するのだ。
オフィシャルファンサイト『石井隆の世界』http://fun.femmefatale.jp/ を手探る。この度の『愛は─』に関して撮影現場の奥の奥まで足を踏み入れ、その詳細を「フォトギャラリー」という形で開陳しているのだが、仔細に見たのは『愛は─』の鑑賞を終えてかなり経ってからだった。目から鱗の画像が交じっていた。「バーあゆみ」のプライベートエリアを撮ったなかに見慣れたものが写っている。店のおんなたちが客の要望に応える一画なのだけど、壁にかけられた様々なフェティッシュな性具のなかにおんなを傷つけた黒い鞭が認められる。(*3)
十六の時分より暗闘を重ねた“れん”にとって性具の入手などコンビニエンスストアで飲みものを買うほどの手間かもしれず、鞭一本をもって断定するのは早急かもしれないが「折れそうになると一人でここに来るんだ」の“ここ”とはどうやら“ドゥオーモ”ではない、いや、確かに“ドゥオーモ”ではあるのだけれど“そう見える”という次元じゃないか。
“不自然さ”を修整するために想像を廻らせば、おんなは母姉が買い物か何かで出掛けたのを機に階段を駆け下り、店の奥のつんと生酸っぱい臭いの立ちこめた場処に入って鞭を手に取ったのだ。ざーざーと雨音だけが響くなかで立ちすくみ、思案をし、万一の急な家族の帰宅に備えて二階へと階段を登っていく。(*4) 自作自演がばれぬようにするには背中や臀部を打たねばならぬ、その為には衣服をすべて脱がねばならぬ、そのような場所は、そのような行為を行なえるのは唯一「風呂場」だけではないか。こうして“ドゥオーモ”と「風呂場」が隙間なく結束なっていく。
幼いころに実父によって交接を無理強いされ続けた「風呂場」に始まる“れん”の受難は「風呂場」と直結した“ドゥオーモ”に父を葬ることで起点へと舞い戻る、そのように“れん”は願った。願いながら「風呂場」で自らを傷つけた。それが“本当の光景”であった。
ならば終盤に為されて私たちを陶然とさせ、延延と(ディレクターズカット完全版では長さをより増して)果てることもなく行なわれて恐怖すら覚えさせる“ドゥオーモ”での鞭打ちは“夢想”に過ぎないのかと言えば、これもまたおんなにとってまがう事なき現実である。
私たちはいわゆる“狂気”に魂を乗っ取られることはない。いや、これを読む中にはそんな荷物を負ったひとも交じるかもしれないが、ごく稀なことだ。けれど、情熱や興奮、没入というのは大いにあるし、たとえば恋情の烈風に巻き込まれ自分をつい見失う程度のことは誰でも過去一度か二度はあった。当人は至って冷静なつもりでいるが、程度は違え折々の言動を思い返せば、さぞ傍から見て奇妙で痛々しいものだったに違いない。気持ちのありかた一つで世界は如実に変貌を来たし、押し止めることは困難ということだ。現実とは極端な話、69億個の違った世界の寄せ集め、継ぎ足しでしかない。
『愛は─』で至極当然の風景となって展開していた“ドゥオーモ”はおんな内側に廻って世界を見渡した瞬間であり、おんなを深く愛した男にとってもまさに現実であった。つたない形容ではあるが、感覚は胃カメラ、腸カメラに近い。やつやつしい風情を晒すおんなに抑制利かずに肉迫するあまり鼓動や嗜好がやがて同調し、正面からでなく“内側”から捉える次元に突入してしまう。大丈夫なの、どうしたの、苦しいの、と、背中をさすりにじり寄る内に、素肌ぎりぎりのところを接写していたカメラがずぶずぶと相手の身体の中に沈んでいき、ぐるり百八十度転回して目線を共有する。
愛しき者の内実にあたかも内視鏡と化して分け入って行く、それは“天使”と想い定めた相手の“はらわた”に入ることなのだが、そんな声を失う転換点をこのところの石井映画は確かに内在させている。ドラマを客観視する男の主観と狂ったおんなの主観がない交ぜとなっていき、(霊肉一致の得がたい交情と似て)観客の恍惚はそのときピークに達していく訳だけれど、混沌として矛盾を孕む状況をどうしても呑みこめず、あれはおかしい、ここはどう考えたら良いかと懸命に整頓を始めてしまう几帳面な観客も中にはいる訳で、そうともなってしまえば物語の破綻と当然目に映り、齟齬だらけのお粗末な仕上がり、引いては怪作という批評を招き寄せる結果と相成る。
若い世代にこのところ人気の伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)は裏面からも絵具を添えて世界のリアルを追求しているが、裏側の見えざるもの、“傷ついた魂”“狂わされた魂”を描きながら、それを表側の動向にぴたり重ねていく石井の離れ業(わざ)は若冲以上の細密な領域に踏み込んでいる。いずれ世間はこれに気付き、こぞって褒め称えることになるにしても、はたしてそれで良いのかとも思う。誰もが優れた読み手ではないし、時代が追いつくのを茫洋と待ち望むのは悔しい。難しいところだ。
(*1): 2005年の『花と蛇2 パリ/静子』では波立つものは控えられ、人生にすべからく訪れる老境について至極淡々と語られている。2004年以降の石井作品群を“壊れている”と総称する向きがあるけれど、『パリ/静子』の頑健で目に優しい構築が示す通りで、石井はそうするのが物語の上で正しいと見定めた場合にのみ意図的に“壊している”、と私個人は捉えている。
(*2):劇場パンフレット所載シナリオより
(*3): http://fun.femmefatale.jp/photo/06.html
(*4):この通りに“れん”が動いたのだとすれば、前作『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)でも顕著だった精神の瓦解を顕現する石井らしい階段が復元されることになる。(二階に風呂場があるという設定は存外ここから来ているのではなかろうか)
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