2022年5月1日日曜日

異常神経


  往事の庶民の暮らし、具体的には花売りの様子について調べねばならず、日曜日の午後を図書館で過ごした。医学書を山と重ねて貪り読んでいる学生や黙々とプリント問題に取り組む高校生などしか見当たらず、子どもや老人の姿がまるで無い。まだまだコロナウイルスへの警戒心は世間からぬけ落ちていない。

 肌寒いものだから陽射しの差し込む窓ぎわと決め、職員に頼んで奥から引っ張り出して来てもらった随筆集を膝に置いてめくっていく。画家の鏑木清方(かぶらききよかた)が晩年になって綴った自叙伝二冊だ。(*1)

 本の内容はあまり参考になる箇所はなく、春の白い陽光に染まっているといつしか眠気が襲ってきて困った。今は福富太郎のコレクションに納まっている、あの「妖魚」の屏風絵の発表時にアーノルド・ベックリン Arnold Böcklinの人魚の模倣ではないかと指摘を受けた件につき、鏑木は言葉を尽くして延延と釈明している。そんなところは彼の気負った声と人柄を感じさせて面白く読んだが、それ以外については今の私にとってはあまり血肉になるところは見当たらなくて、いよいよ眠くなるばかりだった。目的は果たせず、空振りに終わったなと感じる。

 おや、月岡芳年(つきおかよしとし)について書いている、と気付いて、そこの部分では頁をくる速度をゆるめて読んでみる。1839年(天保十年)生まれの芳年と1878年(明治十一年)生まれの清方は親子程も年齢差があるが、清方の父親が新聞を出版する文化人であったことから芳年の方がよく家に来ていたのだ。つまり、幼少時分から面識があるのだった。やがて清方が芳年の弟子に師事することから、孫弟子として芳年とは精神的な結びつきがいよいよ強くなる。

 エピソードなり感懐の言葉のいちいちが興味深かったが、とりわけ幽霊画製作の裏話を明確に記していることに心地好い衝撃を覚えた。「こしかたの記」が上梓されたのは1961年(昭和三十六年)であり、清方はそれから十年ほど長く生きはしたけれど、八十歳を越えた自身が晩節に至ったことを意識しないはずはなく、ならば内容については正確さを求め、文中に後世に混乱を生む種子を埋めることだけは慎重に避けたに違いないのだが、ここで清方は大師匠たる芳年が幽霊を目撃して写し描いたと明言してはばからない。

 世間につとに知られた話ではある。編集者だった本多嘯月(しょうげつ)が芳年没後二十年近く経った1910年(明治四十三年)に雑誌『新小説』で紹介している内容(*2)を、清方なりに反芻して再度世間に伝えているように読めなくはない。

 「先生の師匠芳年は、私が畫道(がどう)に入った翌二十五年に、まだ五十四歳の、畫家(がか)には最も盛りの年頃に精神病で亡くなつた。世間では慢心からだと云つたが、その製作のあとを見れば異常神経がよく窺へる。幽霊を屢屢(しばしば)實在(じつざい)に見たと人に話したさうで、圓朝(えんちょう)の舊蔵(きゅうぞう)であった、「幽靈百幅」の中にある、梯子段の途中でうしろを振り向く女郎の幽靈は寫生(しゃせい)に依ると傳へられる。」(*3)

 「話したさう」「と傳へられる」という言葉尻からすれば、芳年自身の生々しい告白を清方は聞いていないことが判る。それにしても死の到来を意識し、自作を誰かの真似と謗(そし)られることを許せずに縷縷(るる)説明を重ねる老画家鏑木清方(かぶらききよかた)が自叙伝に記していることには眩暈さえ覚えた。つまり、清方は幽霊の目撃譚につき、あの大師匠月岡芳年ならば見たかもしれない、むべなるかな、と捉えているのだ。さらには、「製作」に臨む絵描きの魂と「異常神経」はよく馴染み、ふたつが手を組み合って創作へと突き進むことは時に自然であって、そのような逸話が大師匠芳年の名誉をまったく傷付けないと信じて見える。

 最近出された月岡芳年論の労作、菅原真弓 著「月岡芳年伝 幕末明治のはざまに」のなかでは、明治という時代は文明科学の一気に流入浸透した時期であった、幽霊というものが神経衰弱に由来する幻覚、錯覚のたぐいであると認識し直す動きがたいへん顕著であったから、芳年自身の内部にも神秘主義的な柱は徐々にすたれていったのではないか、次第次第に跳梁跋扈する妖怪や幽霊を描かなくなっている、と解読している。(*4)

 「鬱憂狂」という彼の病歴にしても菅原は世間が考えるほど重くなかったと推察していて、彼の生の道程は一般的なものであったと考えている。確かに狂っていて、あそこまで精緻な絵を描き続けられるとは思えない。おそらく、幽霊は芳年の周りに出没しなかったのだろう。つまり芳年は「幻覚」を見てしまったのだ。

 しかし、それにしても、と思う。幽霊を見てしまう、幽霊を描いてしまう、そして、それら特殊な絵画を観て、その由来を聞いて数多くの人が溜め息をつき、時には涙さえ流していく事の不思議は何だろうか。時代の進歩では振り落とせない強烈なイメージが私たちには巣食っている。幻視、異常精神を通じて到達する魂の領域というのがきっと在る、そんな認識が世界を横断している。エーテルのように透明無臭で絶えず人間にまとわりつき、文明科学の理屈では到底追い払えないのだ。そうして幽霊と呼ばれる幻覚は一生の折々に深く、激しく、切々と作用してくる。

 我々は揃いも揃って「異常神経持ち」なのではないか。そのことの再確認に至ってしまい、なんだか怖いような、暗い動揺が押し寄せてくる。


(*1): 鏑木清方「こしかたの記」1961、「續こしかたの記」1967

(*2):「月岡芳年 妖怪百物語」日野原健司 、渡邉晃、太田記念美術館監修青幻舎2017 86

頁

(*3):「こしかたの記」 鏑木清方 中央公論美術出版 再版1963 123頁

(*4):「月岡芳年伝 幕末明治のはざまに」 菅原真弓 中央公論美術出版 2018 113-114頁


2022年4月29日金曜日

幻覚ヲ見タルコト

 


 幻覚を見ることは恥じることではないと書いてはみたものの、実体験者にとっては口外し得えない困った事態だ。

 幻覚を見る側として、それが幻覚という領域の物であるのか、それとももっと深刻な狂気という域にいつしか踏み込んでしまったのか、その区別がつけられないという不安がある。精神病理学者の渡辺哲夫の本(*1)を最近読み終えたところだが、境界線を越えてしまった者の幻視する混沌世界は酷薄さを極め、幻聴の苦悩たるや想像以上の凄まじさであって、安易に要約できない複雑さと深度を持っている。幻覚の延長線上にそんな次元が舌なめずりして待っているのだとしたら、はてさて自分と家族はどうなってしまうのだろうか。どうしても口籠(くちご)もってしまうのは当然の成り行きだ。偏見を恐れ、万が一の強制入院や薬漬けをぜったいに回避したい、家族の愛情、友人との和やかな会話が遮断することを避けたい、それが人情というものだ。

 かつて我が身に起きた視覚異常についてだって匿名性に頼るかたちであればこそ、どうにか此の場に記せたのであって、身内にさえ見えてしまった光景を打ち明けぬままで終わっている。(*2) 油膜を帯びた薄い雲母状のものが空中に拡がっていったり、目の前の物体の右半分が溶解したりする光景に対し、あれは一時的な幻覚のたぐいだったのだな、今にして思えば珍妙で面白かったな、と落ち着きを徐々に取り戻してはいったけれど、そこに至るまでの道程は薄暗く、ぬかるみがだらだらと続いた。私の場合はそうだった。

 オリヴァー・サックスの「見てしまう人びと」(*3)なんかを読めば、幻覚は一種の救済として内部から湧き上がるものだと分かり、いっさいの後ろ向きな固定観念がたちまち融け落ちていくのだけれど、世間の誰もがこの種の本を手に取る訳ではない。無知な人たち(嘲っているのではなく、単に機会なく知らないでいる人たち)に混じって平穏な日常を送るためには、残念ながら多少の隠蔽なり仮面は必要だ。

 そんな次第であるから、世の幻覚のほとんどはきわめて個人的な事柄として記憶の淵に幽閉されていき、そのイメージや音色は滅多に口述されることなく、毎夜繰り返される睡眠時の他愛ない夢のようにしていつしか忘れられていく。

 稀に幻覚体験者が喜々としてそれを公言することがあるが、自らに落ち度なく、それが他人の手で一方的に為されたものであって、また、自らの肉体や精神が源になっていないと胸張って言える場合に限られていくというのも、だから至極当然な帰結となる。たとえば手術の際の麻酔薬の投与による現象は、医療の側にそのすべての責任を押し付けることが出来る。愉楽のために進んで薬剤を静脈注射なり吸引した場合と異なり、そこに漠然とした後ろめたさや世間の非難を予兆する暗い影は落ちてこないからだ。術後しばらくして快癒すれば、受け取った見舞いなり心配の声への返礼がわりの意味をいくらか含ませて、友人知人にくすくす笑いといっしょに耳打ちするだろうし、言動に翻弄された家族にしても、あなた大変だったのよ、びっくりしたわ、と、眉間に皺寄せて気軽に会話に上らせることが許される。

 澁澤龍彦は死去する直前の入院時に痛み止めの薬による幻視を体験し、それを「都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト」という小文(*4)にまとめているが、これなども典型的な、無垢で天真爛漫な幻覚譚の好例であろう。「舞楽(ぶがく)の蘭陵王(らんりょうおう)そっくりのおそろしい顔」が天井から寝台に向ってゆるゆると降りて来るところなど実に見事な描写で、澁澤ならではの観察眼と記憶力にささえられた名文となっている。幻覚の体験者もまだそれに出逢えていない人も機会あれば読んでおいても損はないように思われる。やがて私たちの誰もが似たりよったり目撃をするだろう。その際には、どうせなら大いに愉しんだ方が得だと思うからだ。

(*1):「死と狂気 死者の発見」渡辺哲夫 筑摩書房 1991

(*2):https://grotta-birds.blogspot.com/2011/10/blog-post_22.html

(*3):「見てしまう人びと 幻覚の脳科学」オリヴァー・サックス 著 大田直子 翻訳 早川書房 2014

(*4):「都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト」渋澤龍彦 1987 同名文庫(学研プラス 2002)に所載  ‎ 

2022年3月21日月曜日

魂入れ

 


 順位付けにひとは熱狂しがちだ。一、二、三、四と数字を並べ、自分なりの理屈で甲乙を付ける。わたしも学生時分には夢中でやったものだ。なつかしい。でも、世間に出てみれば職業差別の眼差しを注がれて辛酸をなめる日々であり、順番でいえば相当下でじたばたする凡夫でしかないと分かってくる。そんな序列外の四季を幾度か越えてみれば、もはや格付けなんてものがいかにも子供っぽく思えたし、悪趣味にさえ見えてきて、以来まったく関心が無くなりどうでもよくなった。

 誰が勝ったか、どちらが賞を取ったかなど報道が過熱気味のときほど体温がさわさわと下がり、興味覚える別の対象にさっさと視線を替えるようにしている。時折こころを妙に動かされる運動選手や歌手も現われるが、共振を覚えるのは彼らの皮膚の裏で怒張していく鉛のごとき緊張であったり、失敗や敗北のときに激しく頭頂部からしたたり落ちる悲哀や傷心であって、ボクシングの試合中継など観ていても、はるばる異国から呼び出され、罵声を浴びせかけられ、蚊の羽音のごとき声援しかもらえぬ外国選手にしか目が向かないし、床に崩れ散る敗者ばかりが瞳に刻まれてしまう。

 映画を観ることを好んでするが、どうしようもなく稚拙な演出や脚本でげんなりしながらも、その作品を悪しざまに語ることはしない。役者のちょっとした演技や声量のコントロールに目と耳を持って行かれる瞬間などあると大変な幸せを感じるし、ロケーションやセットで巧妙に切り撮られた繊細な光と影を目にすると、多彩な景色に陶然となり、玄人の職能にただただ舌を巻き、世界とはなんて素晴らしい場処だろう、人間とはなんて健気な探求者であろうと感嘆する。そうして、愉しい余暇を過ごせたと感じて自然と笑みがこぼれてしまう。

 読書だってそうだ。一冊の本のなかには無数の星々が同居し、其処かしこに浮遊してさまざまな光景をつむいでいる。総体を評価するのも確かに大事であろうが、局所的な描写に気持ちが捕らえられ、読後いつまでも忘れられなくなる展開こそが醍醐味と思う。起承転結の構成が上手くなくても、自分の脳なり魂としっかりと結束する箇所がわずかでも見つかれば十分にすばらしい本に出逢うことができたのであり、とても有意義な人生を送れている、そんな勇気みたいなものがもらえる。

 書籍のなかから数行をすくい上げ、許可もなく世間に紹介し、身勝手な意見や解釈を添えていく行為を自分は此処で繰り返している。もしかしたら有害かもしれないし、そんなことをされる著者もきっと困惑するのだろうが、それ以外には体質的に出来ないのだから許してもらいたいところだ。ちいさな柄杓でほんのわずかな水をすくい、目を寄せて観察し、口に含んで味わうようにしか世界と向き合えない。順位も勝ち負けも度外視して、内観と祈りを繰りかえすしかない。

 さて、先日読んだ本のなかに「幻覚」に触れた箇所があって目を引いた。公害で身体をむしばまれ、訴訟で魂をすり減らした一個の人間が、駆け引きなくその真情を吐露する貴重な一冊である。元々は公害とは何か、差別とは何か、私たちの住まうこの社会とはどんな場処であるかを知りたくて手に取った本であり、実際学ぶことが多々あって、こんな年齢になってからも教育してもらえる有難さを堪能している。まだまだ世界は知らないことばかりで愉快だ。

 この本のなかでインタビューに答える著者が、おのれの精神錯綜の重篤であった時期を振り返り、これを淡淡と語っている箇所がきわめて興味深かった。彼の言葉をそのまま書き写せば「狂っている最中」の記憶であり、そのとき鬼と出くわした、と話すのだった。

 元凶となった化学工場に働く者たちを「自分たちが肥え太るために人間の生き血を吸い、人を食っている鬼ヶ島(の鬼)のように」思っていた彼が、また毒を放出していると感じられたことから鬼退治よろしく単身乗り込もうとする。  

「そのとき自分のなかで展開されたのは幻覚と言えば幻覚なんだけれども、実際にその場面が鮮やかに出てくる」、「二~三歩歩いたぐらいのところで、五匹か七匹ぐらいおった鬼たちが人間の手足を引きちぎって食っているわけですよ、血をスタスタやりながら。」

 彼が構内に踏み込んだ上で見た幻覚であったのか、それとも道端で夢遊病者と化して垣間見た蜃気楼じみたものだったのか、それは書かれていないが、確かに鬼の住処へ侵入し、運悪く見つかってしまった彼はあやうく捕まって食べられる寸前となる。

「その瞬間、上から「早くあがってこんか」いう声がしてロープが下りてきた」、「危ういタイミングでしたね。おれの足が鬼の手につかまる寸前に引き揚げられた」ということで、からくも生還することが出来たのだった。(*1)

 詳述されるこの世ならざる光景のかずかずも凄まじいが、それ以上に感心したのは、筆者が「狂っている最中」の自身と幻覚につき一切否定せず、恥じることなく、逆に自身の魂の快復や逆境の捉え方につき有効であったと確信している様子が驚きであり、また見事であるのだった。

「狂っていく過程は恨みが吹っ切れていく過程でもあったわけです。吹っ切れたというより、吹っ飛んで果てたという感じです」(*2) 「自分もギリギリで、しかも命がけで、狂って狂って、キワキワのところでやっと気づいた、というより気づかされたこと」(*3) 「狂ったあのときは文字どおりの「魂入れ」だったし、揺るぎないですね。見せつけられたというか叩き込まれたというか」(*4)

 こうして繰り返される自己検証の声を並べ見れば、彼にとって狂いと幻覚が無駄どころではなく、必要不可欠な分岐点であったことが納得される。狂っていた方がよく見えていく状況もあるのだし、幻視や幻聴の記憶を魂の道程に深く刻み、成長の糧にしていくことが人間にはあって良いのだ。狂いは、幻視は、忌まわしき病状ではなく、一種の啓示として働くことが間々あるという事実を毅然として主張している。

 正気であること、幻覚を見ないということ、それが健常とは限らないのだ。それが無いことを誇ることも、それで苦しみ恥じることも、どちらもどこか足らないということだろう。


(*1):「チッソは私であった 水俣病の思想」 緒方正人 河出文庫 2020 198-199頁

(*2): 同 198頁

(*3): 同 202-203頁

(*4): 同 210頁