2023年2月11日土曜日

追惜

 傾注しつづけていた対象を喪うことは、ここまで思考なり指先のうごきを虚しくして、鈍麻させてしまうものなのか。藍色の深い海にひたすら墜ちていくような具合で、重く、険しい毎日が続いている。

 日常はやり過ごしている。きっと誰もがそうだろう。アラームを止め、鏡に向って顔をととのえ、足裏の寒さにおののきながらシャワーを浴び、下着を身に付ける。乾燥の甘いシャツのそでに腕を通し、整髪料で丁寧に頭を撫でつける。電灯を消し、しっかりと施錠して、ハンドルを握り職場に向う。

 台本に書かれてあるような有り様とタイミングにて次々と厄介ごとが噴き上がり、眉根にしわを寄せながら、これを淡淡とこなしていく。こなせなくとも、なに糞と呻いて耐えていく。

 顔色も変わらず、体重も落ちず、傍目には変貌を露わにしないのだけれど、確実に内心は入れ替わった。このところ手に取る本は宗教じみた物ばかりだし、劇場であれウェブ経由であれ、鑑賞する映画も自然と絞り込まれてしまった。

 腹の底から笑う瞬間は久しく無い。年齢相応の枯れかたとは思いつつ、異性や性愛への興味なり渇望のみるみる後退していく感じには、なんだかガラガラというくぐもった緞帳が降りる音さえ聞こえるようだ。

 駄目かな、もはやそういう潮目かなと思えてならず、目がしょぼついて霞んでくる。無抵抗で投げやりなっている分身が、心の隅にべったりと巣食って感じられる。

 救われる点があるとしたら、そういう昏くて得体の知れない感覚は、もちろん決して愉しめる性格のものではないのだけれど、一種新しい鈍痛であり、身経験の儚さであって、人生という奴の終わり頃にやって来る醍醐味なのかしら、ある種の麻酔薬かしらと考えなくはない。

 食道を逆流して思わず舌根で感じるあの胃液の苦さ、酸っぱさにも似た「慙愧、苦悶、当惑という名の食いもの」を無理にでも味わい尽くし、血肉にかえるまで突き進まねばなるまい。この淋しさ、この不安が醸し出す苦い香味を分析し、吐き出すことなく再度ごくりと呑み込んで、どうでもこうでも生きていかねばならないのだ。

 人生というものは最期の最期までが学舎(まなびや)であって、捨て去るべきところは無いと信じるしかない。「聖」と「俗」、「生死」を等しく皿に盛って差し出し続けた石井隆というブルータルな料理人から、私たちはそれを学んできたのではなかったか。

 鮮度あふれる刺し身や朝つゆをまとった野菜とならんで、幾つもの四季をめぐって腐敗ぎりぎりとなった厭らしくどろどろびちゃびちゃの謎の発酵物を付け添えてくる、タフで微笑みを絶やさない天才コックの客として我らは縁あって選ばれ、いつしか彼の荘厳な伽藍の内部に置かれたテーブルに招かれて円座していたのだ。

 2022年5月22日に石井隆は去り、こちらはとり残された。シェフが退出しても夜宴は終いになるとは限らない。ひとり、またひとりとナプキンを置いて立つ人があっても不思議はないけれど、わたしはまだまだ粘りづよく席を温め、石井が居ないこの空間の残響に耳を澄まそうと思う。

 皿に添えられていたエディブル・フラワーも残さず口に突っ込み、隙あらば舌を伸ばせるだけ伸ばし、こびり付いたカラメルソースも余さず舐め尽そう。もしかしたら、皿の裏側に何かしら、あの美しい筆跡で書かれたメッセージが貼ってあったりはしないだろうか、駄目元で探してみよう。

 食用と思いこんだ大輪の白い洋蘭が単なる装飾であるだけでなく、毒持つ類いかもしれないが、それに中(あた)って泡吹き倒れても、まったく後悔はない。