六月に入って間もなく、普段聞かないさえずりで目が覚める。東の空がまだほのかに光るばかりの泥色に染まった時刻に、鳴いては黙り、また鳴いては黙りして、それが翌朝もさらにそれ以降も続いた。毎朝叩き起こされてさすがに眠かったけれど、こんな田舎のステージにわざわざゲスト出演してくれたことには感謝している。
調べてみれば、どうやら雪加(セッカ)のようである。なんだ、セッカか、大して珍しくもない、と笑う人もいるだろうが、この辺りにはまったく生息しない事もだんだん分かってきて、多分渡りの最中にどこでどう間違えたものか迷い込んだらしい。
ウェブ上の解説では、ヒッヒッヒッと擬音化されることがほとんどだが、まっさらな耳で聴いた声は無機的な機械音のように感じられた。ヒッヒッヒッではなく、ヒュイヒュイヒュイヒュイと聞こえる。ドーンコーラス dawn chorusと呼ばれる磁気と太陽風が引き起こす悪戯があって、世界大戦中に無線兵を不思議がらせたのだったが、その音が冨田勲(とみたいさお)のアルバム冒頭に収められていた。あれを少しばかり連想させる鳴き声だった。
彼らはそれから半月も経つと本来の根城へと移動を再開したらしく、歌を耳にする機会は突然に途絶えた。替わって今は、別の鳥による高鳴きに悩まされている。庭のどこかで百舌鳥(モズ)が営巣したようだ。
もう二度と生の雪加の声は聞けないだろう。世界はどこまでも断片的である。地球上の音を100とすれば、生涯に耳にする音など1パーセントにも満たないのではないか。大概の人はその総体を味わい尽くすことはなく、ただただ黙って立ち去るしかない。
ところで、世の中には鳥を極端に嫌う人がいる。周囲を見渡せば、直ぐにある年輩の男性が思い出される。彼の家は小規模ながら果樹を育てていたから、それで鳥を余計に憎悪するところがあった。沈鬱な顔で身体をやや硬直気味にして「大嫌いだ、ああ、厭だ」と呟く様子を遠巻きに見ながら、その徹底した言い振りにこちらの価値観を揺さぶられたことを懐かしく思い返す。
だって、総じて鳥という存在は人に愛されがちではなかろうか。飛翔能力は我われの憧憬を誘い、私たちの瞳はごくごく自然に手前をさえぎる影に追いすがっては行方を確かめる。一瞬で彼らに自己投影しては指先にぱたぱたとした風圧を感じ、頬を冷たくかすめる大気を思い、俯瞰して見ているだろうこの一帯のささやかな町並みやら若芽の萌える浅葱色(あさぎいろ)の山々を想像する。さぞや気持ち良かろう、と、彼らの抱く優越感を思い描いては羨(うらや)んでいく。
漫画や映画における鳥の描写が次々に脳裏をかすめるのだが、彼らに対して(一部の作品を除いて)親近の情が託されるのが一般的で、中には登場人物にすっかりなついて人間以上の意思疎通を可能とする。
先日もある日本映画を観直していると印象深いカットがあった。物語の舞台はさまざまなロケ地が縦横に編まれていて、自然豊かな顔付きとなっていた。しかし、その豊かさが人間の行動を阻むという設定である。海に面していながら、其の町から出るにも入るにも小さな連絡船しか行き来していない。外界との接点はきわめて小さい。海はひたすら茫洋と広がって、砂浜と手を組んで脱出しようとする気持ちを挫く。片やまとまった雪に閉ざされた廃屋や路線バスがかろうじて行き来するだけの辺鄙な高原が意味ありげに点描され、狭隘でひどく無味(むみ)な印象を観る側に強いる演出が施されていた。
その映画のなかで、大型の白い水鳥が登場人物の乗る小型の船と並んで滑空しており、これを見上げる人物の胸中をそれとなく知らせる役回りを担っていた。羽広げる鳥に自由への渇望が凝縮されたカットとなっている。清々しさ、生に対しての全肯定、不安などまるでない無頓着さ、無垢といった、透明感と明度の高い存在として水鳥がコントラスト良く配置され、不幸続きの登場人物の屈託を浮き彫りにしていた。
鳥の生活の実際のところは違うだろう。飢餓と疾病に苦しみ、巣を作ってもほとんどの雛は育たない。高いところからぽたぽたと落ち、そのまま戻れずに無惨な死を迎えていく。寂寞と絶望の重ね塗りで、鳥たちの肺腑は真っ黒に違いない。
それでも私たちは鳥の飛翔に希望を見てしまう。歓喜と充足を想い描いてしまう。此処ではない遠い場処で、あの雪加(セッカ)は元気に暮らしているに違いない、そう信じて夜をまたぎ、朝の目覚めを待ち焦がれる。