ここで再度強調したいのは、此の場で展開している言説はあくまでも「私論」に過ぎない点だ。業界人ではなく、もちろん石井隆の製作会社に所属するスタッフでもなく、在野の一読者に過ぎない。実相寺昭雄「闇への憧れ 所詮、死ぬまでのヒマツブシ」(創世記 1977)の挿絵と著者の賛辞に陶然とし、同時代的な併走こそ叶わなかったけれど、なんとか周回遅れで【黒の天使】(1981)の新連載を目撃し、書店の棚にまだその頃は悠然と並んでいた複数の単行本を毎月一冊また一冊と買い求め、玩読し、以降の劇画作品と映画を追い求めた愛好者でしかない。
その程度の者が手すさびに綴ったこの「石井隆試論」は一応「論」と冠してはあるが、相当に不確かで妄想がまぎれ込んでいる。せいぜい「感想」止まりである事実は繰り返し伝えておく義務がある。どうか鵜呑みにしないでいただきたい。
わたしは石井の劇画制作の現場に立ち会ったことがない。インタビュウを通じてその工程を薄っすらと想い描くしかない。先に綴ったこと、つまり石井が劇画作品の素材として熱心に写真撮影を行なっていた点は本人が過去の雑誌で答えている内容であるけれど、では、その後の写真素材がどの程度の分量割合で、どのようにして劇画に活用されていったのか。この目で見ていない以上、本来は何も語る資格がないのだ。
資格も権利も何もないのだが、一方で事実だけを羅列したところで、つまりウィキペディア風に作品データを並べ、あらすじを付け足したところで石井世界の凄みや愉悦は伝わらないように感じるし、「なぜここまで石井作品に惹かれてしまうのか」という自身の内部で常に逆巻いて止まない疑問に対し決着がつかない。だから考えてきた、だから繰り返し視線を注いできたのだ。点と点を結んだり、欠けた部分を無理に補っているうちに、石井の複雑な制作プロセスそれ自体に魅力の源泉があるように今は思える。
石井が取材にあたって一眼レフのカメラを携え、写真を重用する意味はなにか。実際のところは多分、ずっとずっとシンプルな理由かと思う。石井本人が繰り返しインタビュウで応じて来たように劇画作りの総てが「映画」へと向かっていた、そこに答えは尽きる。
発明と実践を日々重ねて競い合う漫画業界の生き馬の目を抜く戦場にあって、アニメーション顔のキャラクターがどんどん幅を利かせ、超人的な跳躍を平気でこなす演技が隆盛を極めた。そんな中においても石井はひたすら「映画」を目標とし、映画的な構図と技法を模索していった。だから、男たちもおんなたちも重力と肉躰にじんわりと縛られ、多くが足を引きずり、最期は地に伏せていくしかないのだった。どこまでも「映画」なのだ。
そんな切実な映画との融合願望をどうにか満足させる鎹(かすがい)となったのが写真機であり、撮影行為であり、ネガフィルムであり、暗室であったのだろう。劇画を製作するための近道として写真を利用したのでは決してなく、むしろ遠回りしてまでも石井は男女の恋情劇を「映画」へと導こうと奮戦した訳である。
「なぜここまで『映画」に惹かれてしまうのか」という自問自答を抱えながら石井は紙面と格闘し、徹底して「映画を表現した」ということであり、それ以上でもそれ以下でもない。この事実をしっかりと抱えた上で受け手は彼の劇画とそれ以降の映画に向き合えば良い。そうして、情欲の焔に焼け崩れ、無惨にも破滅していく恋人たちの最期を見届け、鎮かに黙考する、大事なのはそれだけだ。
いささか空転気味になってきた。誤解も生み落として多方面に迷惑を及ぼしそうだ。ちょっと思考を停めてみよう。そもそも石井作品を考察すること、作家論を編むことが正しい姿勢なのか、御託を並べることなく無我夢中でダイヴすべき場処ではないか、頭でなく身体でのめりこむ作品群ではないのか。その辺もぐらついて、少し自信がなくなっている。この項については一旦筆を休める。