納戸に山積みなったものを順次選別し、処分を始めてからずいぶんと時間が経った。林道を覆い尽くす枯れ葉のように隙間なく置かれた古道具やら書籍やら、大小のダンボール箱や得体の知れない昔の道具をえっちらおっちら掘り起こし、さて、思い切ってこの際捨てるべき物はどれとどれかを判断する作業だ。厄介でなかなか前に進まない。薄っすらと、物によってはべったりと、ほこりが表面に舞い降りて白く付着しており、たちまち上着もズボンも汚れていく。充分な照明もない部屋なので、海底(うなぞこ)の堆積物にも見えてくる。
それらの間に、番(つが)いの鳥の剥製(はくせい)が窮屈そうに挟まっていた。稀にではあるが、何かの用事があって此処に立ち入ることがあった。その折ごとにガラス製のまん丸い目玉がこちらを窺っているみたいで、どうにも気になって仕方なかったのだけど、いよいよ彼らとも別れるときが巡り来たわけである。
かなり年数も経て見えるし、剥製はただただ気味悪いだけで、どうしても気持ちが惹かれない。明るい部屋に引き出して飾る趣味はない。どんな経緯で我が家にやって来たのか、知る術はもはや無く、この際捨てるより他に道はないように思われた。
真情としては彼ら夫婦に対して哀れを感じるし、乱暴に扱われるのは気の毒とも思う。子どもの頃に読んだ松本零士(まつもとれいじ)の漫画のなかに、機械生命体に狩られる母と子の姿があり、親の方が捕まり無惨にも剥製にされて飾られる場面があったけれど、あの怖いコマがちらちらと脳裏に浮んでは消えたりする。
彼らは誰も訪れない漆黒の闇のなかでひたすら寄り添い、永遠の妻夫(めおと)として無言のまま佇んできたのだが、果たしてそれは歓びであったろうか、苦しみであったろうか。いずれにしても人間という輩はよくよく考えもせず、実に酷(むご)いことをするものだ。
さて、この番いは人間の腕ほどの裸木(はだかぎ)に留まっていて、土台を含めた総体が大き過ぎるものだから一旦彼らを取り外してやらねばならない。脚先から延び、木の幹を貫いている固定用の太い針金をペンチで切断してやると、何十年ぶりに解放された鳥たちは(当然ながら錯覚でしかないが)とても嬉しそうにして感じられた。二羽して板間にころんと寝転がり、ああ、せいせいした、と伸びをするように見えた。
そうして初めて裸木の裏側をしげしげと眺めてみれば、そこに二枚の小さなシールラベルが貼られてあって、剥製の出自が固い男文字で書かれてあるのだった。記載内容はほとんど変わらず、同じ人物が同じ時期に記している。「動物剥製標本 和名 ヤマドリ 学名 日本ヤマドリ オス(もう一方はメス)」とある。下の方に「剥製者名」が漢字4文字)で書かれ、続いて「住所」と「TEL」、そして最後に「狩猟者」としてハンターの所属するグループ名が書かれている。誰が作ったのかが分かり、それ程は古くはないことも分かった。
認識を改めさせられたのは二羽の「採集地」と「剥製年月日」に違いがあったことで、オスの方が「昭和53年1月10日」に「O町」で、メスはそれより8年も前の「昭和45年12月2日」に「M」という地でそれぞれ捕まっているのだった。「O町」と「M」とは特選距離で4キロメートル程離れており、鳥たちにとっては大した距離ではないかもしれないが、さて、8年の歳月の隔たりというのはどうしたことか。単純な話である。両者は妻夫(めおと)ではなく、ただただ妻夫に似せるべく巧妙に演出された他人(他鳥)同士であった、という事である。
私は三十年程も前から勝手に彼らを番いであると信じていたが、それは思い込みでしかなかったのだ。あいかわらず馬鹿だなあ、当たり前じゃないか、いっぺんに二羽が捕れるはずがないじゃないか。別々に仕留めたものを寄り添わせただけだよ、剥製の世界じゃ常識だろうよ、と笑われそうだけれど、気の小さい私にとってこの発見は笑いとは無縁の、暗い悲哀に延延と追いやるに十分な出来事だった。
剥製職人は長い歳月オスの入手を待ち望み、それが叶った後にめまぐるしく構想を深め、保存していたメスの身体を解凍し、二羽の死骸をあたかも仲の良い妻夫(めおと)のように並べて自信作を創り上げたのである。夫婦円満、家運隆昌、商売繁盛といった縁起物と信じた行為だったし、単にヤマドリの美しい羽模様の二重奏に酩酊したのかもしれないが、どちらにしても私には到底真似のできない熱狂が潜んで感じられる。どこからそのような荒々しい欲望が湧いて出て、それを実行し得るのだろう。物を作るという作業は時に人間をとんでもない領域に導いていく、本当に畏(おそろ)しい行ないである。
せめてもの気持ちで二羽を綺麗な紙袋に包んでやり、けれど、次にそれを市の回収に託す「燃やせるゴミ」と表記された情緒とはまるで無縁のビニール袋に押し込める訳だから自己欺瞞も甚だしい点を恥ずかしく思いつつ、なるたけ傷つけぬようにゆっくりと扱いながら、そのときメスの目と真正面に向き合ってしまい、どうしてなの、なんでこんなことをするの、と責める声が聞こえたように思われて、年甲斐もなく涙ぐんだ。