2017年12月31日日曜日

”森への帰還”

 宅地造成や護岸壁の組み換え工事の最中に、砂礫や土を突き割るようにして古代の樹根群が見つかることがある。学者に調べてもらうと1万8千年とか2万年前のものと分かり、工事は急遽中断されて責任者は悲鳴を上げ、教育機関は色めき立ち、自治体は対応に苦慮してうろたえる。先日足を延ばした河原もそのひとつだった。外気との接触で急速に退色してみたりカビが生えて取り返しがつかなくなる壁画や墓所といった遺跡とは違い、木の根っ子なんて少しぐらいどうなろうと見た目に大差ないという事か、発見後も無造作に捨て置かれたままとなり、一般人が立ち入って直接手に触れることも自由なのだった。

 身体に例えれば手足が失われ、脛や足首ばかりが残された状態だ。黒ずんで皺の寄った肌は醜悪でさえあるのだが、曲がりくねった黒い根茎の露わとなって点在する奇妙で異質の景色は不思議と目を惹きつけ、強烈な「生命」さえ誇示して見える。人間の、生き物の誕生から死、生活とか暮らしとか、それにともなう感情の最期の行きつく果てを暗示するようにも思え、やるせなく、淋しい気分にずぶずぶに浸ってしまう。朝霧で乳白色に染まった中洲に独りたたずんで、人間の悩みとか苦痛なんて瞬く間のものでしかなく、あっという間に喜びも悲しみも何もかも失われていくのだ、と虚ろな想いに苛まれていく。

 鬱屈した気分に押し潰されるだけではなく、見る喜び、嗅ぐ愉しさが現場には満ちてもいる。剥き出しになった土が発する香ばしい匂いは鼻腔を刺激し、根曲がり、一部はらせんを描いて空を蹴るその姿は、ときに人間のシルエットと相似し、四肢なり胴体なりを連想させて面白い。

 以前、ある人から石井劇画の鉛筆による下描き(複写した端切れ)を見せてもらったことがあり、それは【魔樂】(1986)だとその人は言うのであるが、近似する頁がどれか思い出せない。とにかくそれは二頁に渡る「森」の見開きであって、膨大な数の大小の樹木が押し合いへし合いする風景であり、場面の中央部分には裸のおんなが縛られている、確かそんな絵柄であった。

 信頼の厚いアシスタントに背景のペン入れを依頼し、そのための指示書であるのは違いないのだが、印象に刻まれているのは右手にやや大きめの太い幹がそそり立っていて、そこに線がさっと引かれ、達筆な石井の注意書きが短めに添えられている。樹幹を「男性器のように」仕上げて欲しいと書かれてあって、その直接的な表現に驚愕したのだった。

 森の樹影が彷徨い入った若い女性や子供を脅かし、不安が妄想を煽って、洞(うろ)が牙の生えた口に、枝葉が爪の伸びた気色の悪い指先と変幻して襲いかかるという描写は珍しいものではない。自殺者が樹木となってひしめく森を詩人は夢想し、道に迷ったお姫さまをにゅるにゅると伸びた枝が捕獲にかかる。人の目と頭はそのように出来ているのだし、絵画や映画のそんな演出に私たちは無理なく共感していく。

 しかしながら、原画なのかネームなのか正確には分からないその石井の鉛筆画においては、おんなと問題の木の間には距離が置かれ、両者の間に直接の関係性はないのだったし、前後のコマが無い一枚きりであったので正確には言えないけれど、おんなはその「男性器のように」描かれねばならない巨きい木をまるで意識する素振りはないのだ。そもそも石井の鉛筆は周囲の木々とともにその太い幹に対してもしっかりした主線(おもせん)を刻んでいるのであるが、どこをどうみても男性器らしいくびれも反りも見当たらない。石井の主線に素直にペンを入れてみても、また、そこに幾分なんらかの微細な皺を加えた上でスクリーントーンを貼り付けたとしても、一本の直立した樹幹としての面立ちを崩すことはないように思われた。そこにこそ私はひどく驚かされたのだった。

 どう見ても普通の森のなかの一本の木にしか見えないのだが、それでも石井はこの木の性格に「特殊なもの」を滑り込ませようとしている。その不可視性に言葉を失ってしまうのだ。私たちが流し見する石井世界の背景のさまざまな箇所に、実は作者のもろもろの意識が託されている。石井の劇画や映画とは、そういう化け物じみた場処なのだ、作者の思惑や熱情が無数に植樹された油断ならない思念の森なのだ、そう学んだ一瞬だった。

 白雪姫のように走りぬける体力はもう無いが、妖(あやかし)の石井の森がひどく懐かしく、あの奥に再度帰りたいと願っている。そろそろ訪問はかなうものだろうか。