2016年12月30日金曜日

“ドッペルゲンガー”(5)


 “風景”に話を戻します。石井隆の創造世界に視軸をどっしりと据え、歳月をある程度経ていくと、いつしか各作品の台詞と道具、構図や哲学なりが別の作品と二重三重となることに気付く。繊細な糸で結ばれていて、その刻刻にもたらされる愉楽は大きい。ある時は艶やかな共鳴があり、ある時は長く尾を引く疼痛に悶える。

 この理屈で言えば、【おんなの街 赤い暴行】(1980)とそっくりの現象がどこかで起きていてもおかしくない。目を凝らし、慎重に記憶を手繰ってみる。もちろん前述のとおり、『甘い鞭』(2013)の地下室があり、『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)でおんなの魂を侵した風呂場があるが、今欲しいのは作劇の根幹、彼の“風景”とは何かを明示する刻印である。

 陰森として凄気漂う【赤い暴行】の風景分裂、これと相前後して石井は独りのおんなが冥府をめぐる連作短編を著していて、(*1) その中に名作【おんなの街 赤い眩暈】(1980)が含まれる。この譬(たと)えは作者に嫌われるかもしれないが、石井隆版【ねじ式】と呼べそうな趣きだ。(*2)

 あらすじを綴ることに意味が有るのかどうか、また、上手く伝わるとも到底思えぬ幻想譚だけど、これから書く推論を分かってもらいたい一心から短くまとめればこんな具合だ。

 かんかん照りの舗装路をおんなが汗を拭き拭き歩いている。ゴーッという突然の地鳴りが聞こえ、横断歩道に亀裂が走っておんなは横倒しとなる。頭部をしたたか打ったおんなの意識は滑空を開始し、路地やトンネル、廃墟の容相を呈した夢うつつの空間を彷徨い、やがて案内人の手を借りて“あっち”へと歩み去る。ぽつねんと佇むおんなの影が大きな瞳に映じ、ぐっと手前に視座を移せば、それは地べたに血を流して倒れるおんなの半身なのだった。周囲に人影がある。「救急車呼んだからね ガンバンだよ!」「轢き逃げらしいわよ 車逃げて行ったもん」とめいめい勝手に言葉を発しながら、痙攣するおんなを為す術もなく見下ろしている。

 劇中には具体的な背景が大量に挿入されて在り、どれもが印象深い。一部は複数の西洋絵画を縫合させた物と推察されるのだけれど、それ以外のほとんどは取材に基づく実在の景色と思われる。(*3) 着目すべきは、冒頭の転倒時の背面に描かれたのどかな街路と、最後の見開き頁に横臥したおんなを取り囲む人だかりの後方、にょきにょき生えてそびえる高層ビルの群れだ。前者は写真を基に描かれ、後者はコントラストを強調されたコピー画像が使われている。技法こそ違うが石井がその足でおもむき、その目で切り撮って来た場処が採用されている。

 転倒事故を起点とした臨死体験を描いたもの、と捉えた場合、冒頭と終幕の背景ふたつは面立ちを重ねてもっと気持ちに馴染んで良いはずなのに、よくよく冷静に考えてみればいかにも不自然な取り合わせとなっている。むしろ石井は、極端なパーツをわざわざ選んで配置しているように思う。波打つ大地に足をすくわれて傾ぐおんなの背後を、チン、チンと一台の古めかしい市電が鐘を盛んに鳴らして通り過ぎる。新宿に市電は走っていたか、そもそもこれはいったい何処なのだ。

 また、冒頭では天頂近くに紅炎(こうえん)揺らめかす太陽を配置してあるのに、一転して幕引き場面では漆黒の闇が摩天楼の上空を埋めているのであって、時間軸上の折り合いさえつけようとしない。よくご覧よ、変なのが分かるかい、どういう事だと君は想う、と石井は例によって黙って映像を差し出している。

 倒れて意識障害を起こした人間が起き上がること叶わず、けれど思考を混濁させたまま夢に迷って指先をさわさわと蠢かす。強風に吹かれるどんぐりのごとく、ごろごろと寝転びながら道路を横断し、もそもそと階段を登り、交通機関を蛇のように這って乗り継ぎ、西新宿までようやく辿り着いたのではもちろんないのだし、そんな狂った苦行を経る間にいつしか午後の陽射しは消え去り、ネオンの灯る熱帯夜に至った訳でも当然ない。終幕に描かれた夜こそが現実で、その数コマ以外はすべて黄泉路、石井劇に特徴的な人の精神が拡張した“風景”が起動したと解釈すべきだろう。

 そんなのは読めば誰だって分かるさ、くだくだしい説明はいらないと立腹の御仁もおられようが、私がほんとうに書き遺したい点は実はそこではない。

 【赤い眩暈】の開幕を飾る市電について調べてみたのだが、これは昭和二十三年から昭和二十七年に新潟鉄工所において一台あたり700万円で新造された半鋼製二軸ボギー車であり、石井の生まれ育った街の戦後復興期の主力として活躍した「100型」と呼ばれる電車と分かった。昭和四十四年に交通局においてワンマン化改造工事がされ、昭和五十一年の終業時まで運行されている。(*4)

 【赤い眩暈】の発表は昭和五十五年であるから、その時点では市電運行は終了していたのであって、だからずっと以前の段階に石井が撮り溜めたフィルムから、鐘を鳴らして蘇えり、焼き付けられた写真が原形なのだと分かる。電車の窓の下に「ワンマン」の看板が読めるから、石井がこの景色をファインダー越しに見たのは昭和四十四年より後となり、つまり学生の時分以降の光景と判断される。

 おんなの精神を包みこんでいるのは途切れ途切れの記憶というよりも、ここでは過去という時間そのものなのである。そこのところがきわめて肝心と思う。昼とか夜とか、そんな短い切り貼りではない巨大な跳躍が、隠し絵さながら秘かに組み込まれている。それも【赤い暴行】の白い崖とふたつ揃って、“故郷”の原風景が次々と私たちに無言の内に示されていた次第なのだ。

 新宿以外の背景素材が欲しくなり、古いキャビネットの奥に仕舞われたアルバムを引っ張り出してきた可能性がゼロでないにしても、名美を愛しく、死の経緯を情念こめて描いて、その度に“故郷”へと先導するその筆先には詩的な側面がつよく薫っている。

 【赤い眩暈】の構造は他の劇画作品と融合した上で、石井の近作『フィギュアなあなた』(2013)に結実したが、そこに観客のほとんどは地獄を垣間見た気がして悪寒を覚えた。うら若い男女が配置され、つるつるの染みひとつない肌が露わとなり、踊躍(ようやく)し、舞踏する肉体を見せつけられた私たちではあったが、舞台となった廃墟ビルや棄てられた人形、雨ざらしの屋上、荒廃したアパートの小部屋が背景を覆い尽くし、死という空間が見捨てられた場処、不要と見なされた人間の放り出されるゴミの山とも思った。

 はたして石井のまなざしの奥に拡がる“あっち”とは、荒廃を極めるばかりの廃棄物処分場であるのかどうか。チン、チンという穏やかで懐かしい鐘の正体をこうして知ってみると、もう少し前向きな、多角的な想いが込められていると感じられる。

 死とは、時間軸に縛られることを宿命付けられた生身の人間が冷たい頸木(くびき)から解き放たれ、時間流とは無縁の新たな舞台に一歩だけ踏み出すこと、と、石井は解釈する。劇画や映画は、それを現世で視覚化し得る唯一の奇蹟でありはしないか。時間という圧倒的な流れの前に無力な人間が最後に投げつける持ち札として、命がけの抵抗の果ての褒賞としてそれはあり、渡河した瞬間から私たちが過去と呼ぶ時空がやさしく待ち止める。

 見知った人の訃報を耳にすると無惨な断裂の想いに苛まれるのが常であるが、そのように信じてみれば、救いの手がそろり目の前に伸ばされて感じ取れる。こんな歳の瀬ではなおさらだ。頑強な足腰と快適なウェイダーの与えられ、微笑みつつ心ゆくまで時の川と戯れる‟風景”の訪れを切に祈るのみだ。


(*1):私たちファンは勝手に“タナトス四部作”と名付けてみたが、それ等を構成する素材を丁寧に調べていくと、病的なもの、破壊的な物ばかりでない事が分かる。“タナトス”という括りは性急過ぎるかもしれない。
(*2):【ねじ式】 つげ義春 1968
(*3): http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1157506539&owner_id=3993869
(*4):仙台市交通局 仙台市電保存館 展示資料より


2016年12月26日月曜日

“ドッペルゲンガー”(4)


 石井世界において“風景”は単なる舞台装置ではなく、人間の精神を拡張させた確かな存在として働いている。どれだけ静慮に価するか、二、三の分身譚を通じて読み解いてきた。

 “風景”の話からはやや横道に逸れるけれど、少しだけ影法師そのものについて想いを馳せたい。「ウイリアム・ウイルソン」等のよく知られた怪談とは異なり、石井の劇では同じ顔立ちの相手と鉢合わせして視線がからんでも、驚愕したり拒絶することなく、即座に自分自身と認めてにじり近寄っていく。具体的には『甘い鞭』(2013)の終局に出現した分身とそれを前にした反応を指すのだが、その様子がなんとも風変わりである。相手に対して一切の反撥を覚えず、同じ磁場に取り込まれたようにして一歩、また一歩と近づいていく展開というのは、私には十分に不自然で独特の展開と思われるがどうであろう。

 厳密にはドッペルゲンガーとは呼べないにしても、石井の劇には相貌を近しくする者への物狂おしい拘泥があり、また、鏡像に対する頓着も明らかだ。これらは同根の事象であり、石井世界を解読する上では容易に外せない点と感じられる。

 たとえば、二、三の作品をここで例示するならば【黒の天使】(1981)の一篇【ブルー・ベイ・ブルース】がまず浮上する。1998年のまんだらけ版で大幅に改稿され、ゲストの不良少女の顔が主人公の殺し屋、魔世というおんなに極めて似た華やかな面貌にことごとく改められた点が印象深い。また、1984年に発表された【赤い微光線】にて、石井の代表作【天使のはらわた】(1977)の主人公‟川島哲郎”を彷彿させる無頼、川島が登場し、名美をめぐってその恋人である優男(やさおとこ)村木と正面から衝突し掠奪を繰り広げる辺りがそうであって、極めて異色でありながらも石井という作家の心髄が露出した瞬間ではないかと思う。特に後者の男ふたりは似た顔立ちであることを宿命づけられながら、双方共にこれに全く触れることなく、化粧台の鏡像のように黙々とおんなを挟んで向き合っていき、さらには終盤におよんで徐々に容姿の段差が埋まっていくのは玄妙この上ない。 (*1)

 心理学や動物行動学では雌雄が惹かれ合う条件は何であるのか、「配偶者選択行動」という題目で研究されているが、それによれば遺伝学的に遠すぎず近すぎず、ほどほどの距離をもった相手が選ばれやすい。夫婦が似るのもそれが一因という。また、ふだん鏡などを通して見る自分の顔を基準とし、似た面立ちの犬を飼ってしまう傾向が私たちにはあるらしく、これを「親近性」と称すると専門家は書いている。(*2)

 確かにそういった現象は散見されるけれど、日常の赤の他人と交り合りにおいては連れ合いやペットを求めるような取捨選択の意識なり行動はともなわない。多くの場面が受け身であったり、無理に押し付けられる出逢いであって、そこでうり二つの相手と対峙する羽目に陥ると自由が利かない分、生理的にいかにも気色が悪い。

 余程の自信家でなければ人は自分と似た他者を即座に受け止め、無条件に愛せるものではない。了見の狭い、歪んだ過剰反応だろうか。私などは相手の厭な部分、それは寝癖が取れぬままの髪や伸びた鼻毛であるかもしれないし、バランスの悪い目鼻立ちや頓珍漢な服装、それに、場慣れせずにおどおどした身振りといった外面の困ったところ、はたまた言葉の端に出る底意地の悪さ、凡庸な頭を晒す滑稽な会話など内面の恥ずかしい部分がやけに目についてしまい、我が身の弱点や未熟さを指摘されたような後ろめたい気がして思い切り遠ざけたくなるか、別のテーブルに逃げたくなる。

 ブラッドベリの短編に双子を題材にした作品があって、ひと言で書けばうつくしい姉妹が徐々に仲たがいしていく様子を描いた内容だけど、これなどは実に気持ちにしっくり来る話だ。顔だけでなく服装も仕草もそっくり似せることを信条とする姉妹の間に波が立ち、弦が切れるようにして心が乖離していく。やがてその肩割れが体型を変え、髪の色を変え、服を変えて抵抗を始める。人には本来、近親憎悪とも言うべき魂の渦があって、なるほど親しみを抱く瞬間もあるだろうが、同程度かそれ以上の嫌悪も生まれ落ちる。(*3)

 石井の劇における鏡像はなぜかそういった不快をもたらさず、愛着の対象にしかならない。作家の性格と言ってしまえばそれまでだが、この絶対的な傾性が石井世界の底のほうでマントルとなって流れており、一定の方角に押し流している。それぞれ独立した作品たちを群体のなかに引き止め、その総身に重い勢いを与えている。

 劇画【黒の天使】の最終話にて、ヒロイン魔世ときわめて似た面立ちでありながらもこれまで繊細に描き分けられていた助手役の娘、絵夢が、死者の服を纏い、遂に主人公の相貌とひとつになって、仇討ちのために裏組織の本拠地に乗り込んでいく姿の切迫しながらもひどく甘苦しい気分というのは、石井の鏡像嗜好のひとつの到達点であり、今もってまばゆい熱源となっていて忘れ難い。


(*1): いずれも石井の劇特有の不自然さが愉しく、以前別の枠で取り上げている。http://mixi.jp/view_diary.pl?id=312127000&owner_id=3993869
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=216419068&owner_id=3993869
(*2):「美人は得をするか 「顔」学入門」 山口真美 集英社新書 2010  107-111頁 
(*3):「鏡」The Mirror レイ・ブラッドベリ 「バビロン行きの夜行列車」(ハルキ文庫 2014)所載