2015年9月2日水曜日

“ナルキッソス”~「別冊プラスアクト」 東出昌大×石井隆


 大地に横臥して、満点の星空を仰ぎ見る。うす墨で半紙に一文字を引き、そのにじみ具合をカメラで撮って白黒反転させれば、きっとこんな具合になるものだろうか、天空の河がゆらゆらと白く霞んで視界を縦断している。まばゆい光跡がすぐ側をかすめていく。いくつも、何度も、それを目で追いながら、頭に巣食っていた憂鬱なことごとをしばし忘れた。自分が負っている苦労など、宇宙の中では塵あくたに過ぎないと思う。

 前照灯の先に野兎が不意に現われ、ばたばたと跳躍する、そんな真夜中の小道を登ってきた。どっぷりと沈みこんだこんな山腹まで至ればこそ、ようやく見えて来る儚い光たち。何万年も旅してきたかもしれない星屑の終焉、最期のともし火。よく言われる喩え話だけれど、明るければ何でも見えるわけではなくって、むしろその明るさが視界の邪魔をすることって往々にしてあるものだ。見えないからといって、存在しないとまでは言い切れない。闇に足を踏み入れ、はたまた穴に蹴落とされて、そこで目を凝らすことで色んなものが見え始めることがある。そっと息づき、身を硬くしてこちらを窺っている存在にようやく出逢える。

 わたしは石井隆の作品を大切に、大事に観続けているつもりだけれど、そのように気持ちを集中することで、時どき流れ星のようなものに出くわすことがある。いや、何も特別な場処に招かれるとか、図書館の蔵書のかげにとんでもない発見をすると言った大袈裟なものではない。一介の読み手に過ぎないから、手に持ち、銀幕で真向かうものは、誰もが目にする一般的な事物に過ぎないのだが、そこに見過ごし得ない閃光を見てしまう。一瞬後、目の奥や胸のうちが煌々と照らされる時間が訪れる。

 先日も「別冊プラスアクト」という雑誌(*1)を読んでいて、これは眼福、素敵な眺めだ、とうれしさの余り膝を打った。この号には「東出昌大×石井隆」という両者の対談が採録されており、これはもちろん新作『GONINサーガ』(2015)の宣伝の一環な訳なのだが、合わせて載せられた写真数葉がなんとも魅力的なものだった。

 床から背後から、目に留まるすべてが重たい調子の暗幕で覆われたスタジオにて撮影されていて、腰をおろした東出の手前には大きな鏡が、冷えた面(おもて)を天井にむけて横たわっている。東出の様子が鏡に映じて、さながら水辺に休息する牡鹿か、水面にしだれる忍冬(すいかずら)のような風情だ。

 この構図は石井がこれまで幾度も自作に採用したものであって、挿絵や劇画作品の扉絵、そして映画にも反復して登場している。たとえば劇画作品【聖夜の漂流】(1976)、【赤い教室】(1976)、【停滞前線】(1979)の各扉絵(*2)や、近作では『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)の冒頭や、そのメイキングDVD(*3)のカバー画像がそうだった。カラヴァッジョ Michelangelo Merisi da Caravaggio が描く「ナルキッソス」にも似る、闇、鏡、屈んだり座った人体、鏡像、両者を斜め上から捉えた構図。寂寂たる湿霧に包まれながら、鏡面もしくは水面と一個の人体が向き合うこの絵面(えづら)を、石井はとても好んで描き続けている。

 単なる偶然ではないように私は思う。たまたま意図せずに編集者が求めたのであれば、それはそれで面白い星めぐりであるのだし、意図的に“石井世界”の再現または連結を図ったものであるなら、これは記憶にとどめて良い大きな波紋であろう。撮影は本多晃子(ほんだあきこ)とある。映画の演出にも挑む新進のフォトグラファーのようだ。透明感のあるポートレイトを得意とし、実績も手堅く積んでいる。信頼を得て、多くの若手俳優が身もこころも任せているようだ。

 撮影の前後には石井も同席したようであるから、そこにはさまざまな想いが交差したのではあるまいか。東出と本多が石井世界に敬意を表した可能性もあるし、石井がコンセプトを任せられ、東出をふたたび自身のふところに招いたのかもしれない。この辺りの経緯は私たちには分からないのだけれど、こういう不思議な符号は見るだけで嬉しいし、なにより楽しい。

 これから先、いくつこんな流れ星にめぐり合えるだろう。まだしばらくは、この夜の遊歩を続けてみよう。転ばぬように、熊に咬まれぬように注意しながら、歩けるだけ歩いていくつもりだ。


(*1):「別冊プラスアクト」第21号 「東出昌大×石井隆  19年という“時の旅”を経て『GONIN』シリーズが復活!『GONIN サーガ』主演・東出昌大と監督・石井隆が今作の撮影を振り返る」
ワニブックス  2015年8月21日発売
(*2):これら石井劇画の扉絵を模したのが、『天使のはらわた 赤い淫画』(1981 監督池田敏春)のポスターだ。背景のホリゾントに鮮烈な赤を配しており、石井の静謐な空気感とはすこしだけ乖離があるけれど、石井世界の良き理解者であった池田だけに丁寧な仕上がりだ。同心円の波紋を描いて、今に至るまで共振をつづけている。
(*3):『女優・喜多嶋舞 愛/舞裸舞 映画「人が人を愛することのどうしようもなさ」より』 東映ビデオ 2007