相似する影ふたつから、【夜の深海魚】(1975)と『甘い鞭』(2013)との連環を先に書いたが、もしかしたらそれは私の早合点かもしれない。映画で木下と名付けられた裏町の住人を演じたのは屋敷紘子(やしきひろこ)で、元々が端正な顔立ちであって、石井隆がかつて描いた劇画のなかの女伊達と無理なく被っていく。しかし、整った面相というのはある意味、没個性へと漂着する。
屋敷がそうと言っている訳ではないのだ。押し味のある独特の存在感を示す女優だから、むしろ興味深く見守っているくらいだ。没個性とはあくまでも【夜の深海魚】と『甘い鞭』双方のキャラクターの風貌を指して今は言うのであって、たとえば口がひどく曲がっているとか、頬に傷があるといった際立った特性は与えられておらない。役を担った屋敷も、悪戯に力んで表情を崩すような下手な鉄砲は撃たない。その為に両者が意図的に似せられたかどうかの糸口がつかめない。服装は全身を黒皮であつらえたいわゆる女王様ファッションだから、その点だって突飛なものではないのだ。唯一無二の奇抜な造形とは共に呼べず、スマートで定番化した役どころと称することが妥当だろう。
映画の屋敷は眉毛がなくて怖いし、相当きわどくはあるのだけど、正攻法の姿勢をほどいてはいない。肩越しに重量感が匂うと言うか、ゆらめきつつも平均台にはちゃんと乗っているというか。その硬質のところも次の連想を誘うのだ。手本となる切り抜きを示され、鏡の横にクリップか何かで留めて、それを見ながら懸命に作り込んだ訳ではないのであって、屋敷だけの孤高の想像力で我が身を妖しく装ったのではなかったか。脇座をどう染め上げるべきかを熟考した上で、模範的な絵姿を世に送り出したのではなかったか。
『GONIN2』(1996)の衣小合わせの際に、鶴見辰吾が奇抜な髪型で現れて石井を仰天させた事は周知の事だが、切れ長の目を強調した屋敷のどぎつい化粧にしてもボブカットの髪型にしても、鶴見と同様に台本を読み込んだ末に行なった役作りの範疇に含まれるかもしれず、また、石井はこの提案を面白がり、心底愉しみながら起用したのだったかもしれぬ。【夜の深海魚】という過去の景色を撮影現場に持ち出すのは土台からして“不自然”だし、スタッフなり役者がそれに踊らされたという情報は全くないのだ。両者を重ねて透かし見るのは、わたしだけの狂った妄想ではなかろうか──。
そのように思考を鈍らせ、足踏みする夜を重ねたのだったが、ゆっくりと時間を置くことで蒸留され、行き着く思いがある。石井隆のぶれない体質からして、役者屋敷の創ったこの容姿に自身の嗜好を重ねたのはきっと違いなく、拒絶反応が生じるはずがないということがまずひとつ。おんなの面影が石井の指示によって作られたかどうかはこの際問題ではなく、大事なのは木下景子という痩身のおんなのシルエットが石井隆の世界に至極馴染んで、確かな鼓動を刻んでいる、この点こそが大切な点ではないかという思いが、次に固まっていった。
石井好みの容貌である以上、現場での順応は程なく進んだのは違いない事であろうし、暗闇に包まれた秘密の部屋にぬっくと立つ猛々しいおんなの影を連結器と為し、映画『甘い鞭』は劇画【夜の深海魚】と年数を越えて通底していくのもまた、石井世界に於いては自然の理だ。
食と壁、さらには重要な役どころのおんなまで入れ替えて、こうまで徹底して変幻した『甘い鞭』を私たちは今、どう捉えるべきか。石井世界の大伽藍に溶け込む段階にようやく来たと感じられるし、明瞭なレリーフとなって神話を謳う、新たな役割を得たと言えはしまいか。石井という絵師の筆致が至るところに確認できる、やはり石井世界の産物のように映画『甘い鞭』を思う。
単行本未収録の【夜の深海魚】について、ここで筋や詳細を取り上げてもほとんどの人は皆目わからず迷惑至極だろう。代わってここでは映画監督の実相寺昭雄(じっそうじあきお)が、この掌編ついて語った言葉を添え書きしたい。実相寺は別冊新評の石井隆特集号(*1)において、「幻私物語 石井隆の色」(*2)という評釈を寄稿している。「私は石井隆さんの熱烈なファンであり、コレクターでもあった」(*3)と書くだけあって、初期の劇画作品をいくつも引きながら熱い調子で綴るのだった。
やや情感に流れた文章ながら、石井の執筆活動の早い時期から着目して丹念な渉猟を続けただけあって、世界全体の輪郭というか、軸心、実相寺自身の言葉では「原型」のようなものを探し当てたと感じさせる文章が並んでいる。私たちが既に了解している通り、石井世界という同じ潮流に属するということは、一方を語る言葉は自ずと反響して他方を解する助けとなるのであって、実際、ちょっと引用するだけでも心の内に、石井の映画作品を含む物語の諸相がきらきらと舞い踊り、切なさそうな顔でこちらを見やって来る。
たとえば以下のくだりなどは【夜の深海魚】を含む初期作品に対し語られたものであるが、『甘い鞭』という物語でさまよう奈緒子というおんなの、引いては石井作品でぽつねんと佇立する男たちの、さらには二時間弱の短い間だけ劇場の椅子に身をゆだね、その後静かに眉をよせながら日常へと帰還する私たち受け手を含む優しき人間たち全般をモデルとした素描を髣髴(ほうふつ)させ、頷かせるものがいちいちある。
「“夢の否定の劇画”という一点で、深く夢とかかわっている」、「夢への通路を渡ろうとした物語」、「夢にも見離された状態、即ち夢の拒否を、彼は一本の線に仮託したのである」と実相寺は書いている。さらに続けて、「夢のさめた果てには、どこを探しても、現(うつつ)はない」、「夢の対極にある日常は恢復しない」、「残されたものは、時間も、空間も定かではなくなった混沌と朦朧。恐らくは何もない。何ものも産み出さない時間だけが空しく過ぎている世界なのだ」(*4)と、石井が描く物語の末路を総束して見せる。
渡ろうとした道は閉ざされ、夢の続きも現実への戻り路も『甘い鞭』の奈緒子(壇蜜)は見失うのだったが、思えば『死んでもいい』(1992)にしても、『ヌードの夜』(1993)や『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)にしても、どれもが“夢の否定の物語”ではなかったか。避難先を探しあぐねて瓦礫のなかに立ちすくむ、そのような寂寂たる道程が描かれていた。
「その恐ろしい迄の、回帰する場所を失った男たちの現在の神話が、石井隆の描く“夢の否定”のオデッセイなのだ」、「無明の世界があるばかり、なのだ。但し、この世界を諦観と呼ぶのは、ためらわれる」、「そう、もっと恐ろしいもの、畏怖して近寄り難い妖艶な闇の色、というべきであろう。」(*5)
『天使のはらわた 赤い眩暈』(1988)の村木や『GONIN』(1995)の荒ぶる男たち、そして『フィギュアなあなた』(2013)の黄泉路(よみじ)の旅人を想うとき、実相寺の上の言葉は見事に的を射抜いて感じられる。“夢”という言葉に翻弄され続け、伸ばす手指にも這い進む足先にもそろそろ疲労が溜まって動きが止まりがちな私たちの身にも、ゆるり滞留して束の間なれど黒い渦を巻く。
石井世界を「何と残酷で哀しいもの」(*6)と、実相寺は持論を結んでいたのだったが、確かにそうと想う。特に近年の映画づくりはまさにそれだろう。夢の世界に息づく住人が懸命に力をあわせて作っているのが、徹底して“夢の否定”であるとは。それを凝視し続けて、生命の輝きに触れるとは。切実な荒野が身近に在ることを強く感じている。
(*1):「別冊新評 青年劇画の熱風!石井隆の世界」新評社 1979
(*2):「夜ごとの円盤 怪獣夢幻館」実相寺昭雄 大和書房 1988 に再録
(*3):「闇への憧れ 所詮、死ぬまでの《ヒマツブシ》 創世記 1977 あとがき
(*4):「石井隆の世界」 176頁、177頁
(*5): 同 177頁、179頁
(*6): 同 179頁「石井隆の劇画(陰画)とは、何と残酷なものか。」